4月の例会の様子

 4月の例会は、最初に総会を開催しました。
今回は、なんと15名の参加です(^^)/
いつもの様に、帆船談義に華が咲きました。

午前中はフリーディスカッションです。
星屋さんの「キングストン公爵婦人1778」を囲んで堀さんがアドバイスをしています。

 

綺麗な船体です。この船は、キングストン公爵夫人のために建造されたロイヤルヨットで、ブリストルの造船業者JMヒルハウスによって1770年代後半に建造されましたが、18世紀の船でありながら17世紀の様なクラッシックな部分を残している魅力ある船です。

土井さんのアマティ社のピンタ1492を囲んで、尾崎さん、布垣さんと帆船談義です。

 

 

 

 


午後から例会です。
4月ですので総会を40分程しました。
役員変更があり、会計について佐野さんが運営委員から
新たに会計に就かれ、和谷さんは会計から運営委員に代わりました。
他は重任で変更無しです。

来年10月1日開催予定の第4回帆船模型作品展に向けてガンバロウということになりました。

次に福田さんからコンビニに売っている帆船模型の紹介がありました。
ウッド・パズルということで、合板をレーザーカットしたものです。
3Dプリンタ、レーザーカット新しい技術をどうのうに活用するのか今後の課題です。

次に吉村さんから、ルーターに便利な自作フットスイッチの紹介がありました。
照明用のスイッチを活用し1000円以下で作れるそうです。操作性も抜群で是非おためしあれ!

 

 

 


私の書籍 第2回目は尾崎さんです。
朝鮮通信使の船の製作のお話がありました。

某協会の依頼を受け、資料探しから始められたそうです。

インターネットもない時代に、当時の足取りをリュックを背負って現地を歩かれました。

下蒲刈町(2003年4月1日に呉市に編入)の松濤園へ行かれました。

江戸時代、朝鮮通信使の来日に際し、下蒲刈島が藩の接待所・玄関口だったようです。

安芸蒲刈御馳走一番と言われ歓待したそうです。
そこの朝鮮通信使船資料館に1/10の精密な船の模型があります。

 

 

 そこで、大変貴重な資料をゲットされています。

よくこんな貴重な資料を旅人にくれたと感心します。

 

尾崎さんの御人柄とその心意気が伝わってのことと皆感心感心です。

 

文化財保護委員長 柴村敬次郎さんが語っておられます。

「この模型は、「国連教育科学文化機関(ユネスコ)の「世界の記憶」(世界記憶遺産)に登録された絵巻物「朝鮮人来朝覚備前御馳走船行烈図」にも描かれている通信使船の模型も作った。韓国の古代船舶研究所に依頼し、通信使の最高責任者である正使の大船を10分の1で再現した。」

 

ここから尾崎さんは図面を起こされています。

正確な図面に仕上がっています。

 

 

 

 

この設計図を基に精緻な模型を製作されています。

ところで朝鮮通信使船は、唐船:ジャンクと異なり丸底ではなく平底です。

外洋に出る船で平底というのも安定性が悪く大変危険な感じがしますが、
なんと、船首形状は箱船形状です。上陸用舟艇の様な形でこれでは波を被ったら転覆しそうなのですが
安宅船もこの船首形状ですから何かメリットがあったのかもしれません。

尾崎さんから平底ということで、「和船Ⅰ」「和船Ⅱ」という石井謙治の著書の紹介がありました。

 

 

法政大学出版局から1995年 7月 7日に出版された本です。
この本は2部構成になっています。

 

 和船について、特に構造について大変詳しい本です。

尾崎さんから、平底部分の引用の読み上げがありました。

P182の引用でした。
幕末のアメリカ人の和船評に「船底に「まぎりかわら」を入るべきこと」というのがある。
「まぎりかわら」とは、いわゆる角形竜骨のことで、船底に突き出しているため横流れを少なくさせて間切り走り(クローズ:風上に進むこと)に効果的ということから、日本人がつけた名前である。
明治以来、和船には竜骨がないから脆弱だというのが通説になっているが、それはこうした外人の批評をよく理解もせずに、鵜呑みにしたものであって、弁才船なおはかなり上部な船であったことは既述の通りである。
そうなると、この外人が竜骨をつける必要があると指摘したのは、強度の問題よりも横風や逆風での帆走性能を懸念してのことで、平底だから横流れが大きいだろうという単純な発想に基づいたものに違いない。
しかし、これが実情と違っていたことは、弁才船では横流れに関しては別の方法で対策を講じてあり、平底であるからといって、彼らが懸念するほど横流れは大きくなかった。
その点については、第Ⅳ章の「弁才船の航海と帆走性能」を御覧頂くこととして、ここでは平底もまた長所であったということをとり上げてみたいと思う。
天下の台所として前項各地の物資が集散する大坂(大阪とはかかず)は、名実ともに日本一の商港であった。
しかし港としての大坂は、安治川口と木津川口を利用する河口港であり、また日本各地の主要港も河口港が多かった。
新潟・酒田・三国・石巻・銚子など数え上げれば切りがない。
(中略)
問題は、河口港に共通する水深の浅さであった。
むろん出入港は、満潮時に行うから支障はないにしても、干潮になると船底がつく、つまり擱座する状態になることが起こり勝ちであった。
(中略)
船底がついてもさしつかえない平底の船が最適ということだったのであり、弁才船は大型化すればするほど平底を必要としていたのである。


ところで江戸時代の千石船(弁才船)でどのような航海だったか?
このことについても記述があります。
「地乗り」といって船乗りは目標のない大洋を直航する天文航海術を知らないから、まず出航の港で日和を見、順風をまってその強弱と航海可能の昼の時間を勘案し、次の寄港地を予定して出航する。
(中略)こうして何度も寄港を重ね陸岸に沿いながら航海する
大坂~江戸は平均38日、最短で10日を要しました。
江戸後期になると航法が随分進歩し沖乗り、夜間航海も導入され最短6日平均12日と早くなった と記述があり本当に詳しい本です。

最近、何故か入手が簡単になりましたので、是非そろえたい本です。
今回はここで時間となりました。(^o^)/