次回制作予定の咸臨丸について調べてみると、色んなことが判った話
帆船模型の制作の面白さは物づくりの面白さである事はもちろんのこと、その殆どの船は歴史上実在した船なので、その史実やその船の周辺の当時のことを調べると、
それはそれで「ヘエ〜そうだったのか」と感心することやびっくりすることがあって、制作している船にも 色んな想い入れが乗っかって、そんな空想をしながら制作するのも楽しいものだと 今、作っているサンタマリア号でそういう楽しみを発見したんです。
今回はプロローグと動機です。 投稿 米川
◎ 咸臨丸を作ろう
今度作る船も、そんな楽しみ盛り沢山な作り方がしたいとの思いで、事前に勉強してから 制作にかかりたいと云う気持ちに駆られたんです。
しからば、何を作り、どういう事を勉強するのか。
いろいろ考えた挙げ句 以前から興味を持っていた、船の発達史の中で 帆船にエンジンが付き、外車船(外輪船)が 一世を風靡し、暫くしてプロペラのスクリュー船が主流となった、あの目まぐるしく
テクノロジーが花を咲かせたあの時代に見たこともない大きな蒸気船が日本にやって来た。
そう、あの太平の世の中をひっくり返したアメリカの黒船。衝撃的な出来事
正に、船のテクノロジーが見る者を驚愕させ、その後日本の体制までも変えてしまった。
あの事件は第一級、超ド級の一大事件。 この出来事にやっぱり一番気が惹かれる
で、その事件の主役である黒船「サスケハナ号」を作るのか、その後に日本にやって来た「ポーハタン号」を作るのか。
どちらも帆船であってアメリカ艦隊の主力艦、蒸気エンジン搭載の外車船。
二隻とも興味を引く船には違いないが、やっぱり資料が不足、詳細がよくわからない
ウ〜ン どうするべきか。
その動乱の時代、黒船事件に刺激を受けた江戸幕府が作った船(正確には買った)
「咸臨丸」という船はどうか。
この船は帆船であって蒸気エンジン搭載のスクリューを持った船その当時の最先端のテクノロジーをもった船であって、しかも何よりこの船のことは皆が知っている。
名前を聞いたことがある人は船に興味がない人でも結構多い まあ皆んな、歴史の授業で習ってるからなんだなあ。
それに、なんと言っても、超有名人である、勝海舟さん 福沢諭吉さんが乗ったという船なんです。
先日(4月末)に行なった倶楽部の作品展 この展示会に当帆船倶楽部の細川会員が「咸臨丸」を出品されたんです。
京都という土地柄、海外の観光客も大勢観に来て頂いた、その中でオーストラリアのご夫妻が 咸臨丸をじっと観ておられたので
私が1万円札の肖像画を指さして、この人が乗って サンフランシスコまで渡った、日本最初の軍艦 なんですよって説明してあげたら「オーワンダフル!」って言って覗き込んで観ておられた。
まあ、咸臨丸はきれいな流線型の船体に3本マストのシンプルなかっこいい船。歴史の動乱の荒波のただ中を突き切り、日本の近代史に燦然と輝く船ですよね、
そうだ!これに決めた。 これを作ろう!
今回から新連載として「咸臨丸の夢」というショートコラムをスタートしました。今回は プロローグとしての動機等を書きましたが、次回からは本題としての咸臨丸に関して勉強した話題を書いていこうと思います。
全体で24回くらいを想定していますが、まあどうなることやら 素人のつたない文章にどこまで付き合っていただけるか 正直心配だらけですが、なるべく面白いものにしたいと考えています。
これを連載しながら、どこかで実際の模型制作の製作日誌をアップしたいと考えています。
乞うご期待!
私なんかは中途半端な知識で「幕末の頃、勝海舟が艦長として乗り込み日本人として初めて太平洋を横断しアメリカと平和条約を結んできた船」という風に覚えていたんです。 船の科学館資料 咸臨丸の表紙より
投稿 米川
これって、大きな間違いがいくつもあるんですが、なぜこんな間違った知識が頭に入って どこが間違っていたのかも含めて咸臨丸について一つ一つ探って行きたいと思います。
まず、咸臨丸の咸臨ってどういう意味?
この言葉は中国の古典から引用した言葉らしく「主君も家臣も互いに仲良く協力し合う」という意味らしく、なるほど幕末のこの時代を反映した名前ですね。
◎船の大きさ
その船体の大きさ、寸法ですが、これがまた不思議な事に長い間解ってなかったらしい。この船は日本で作った船ではなく(江戸幕府 大型船建造の禁止令を出したため、造船の技術が育たなかった)
そのころ唯一取引をしていた、オランダに依頼して作ってもらった船なんです。普通に考えたら納品の時(納船か)図面も一緒に受け取るって思うんですけど、どうもそうではなかったらしくその後の色んな書物に大きさが書いてはいるみたいですが、信憑性が低いというか 信用できない数値ばかりみたいです。
100年以上経った1970年頃、オランダのロッテルダムの海事博物館で咸臨丸の図面が9枚発見され、ようやくこの船の全貌が見えてきたという事らしくて、こんな有名な船がそうやったんかと驚きです。
全長 48.8m
垂線間長 41.0m
全幅 8.74m 深さ 5.6m(竜骨下面から上甲板まで) 平均喫水 3,125m
◎排水量
これも同じく長い間、諸説飛び交い、勝海舟自身がまとめた「日本近世造船史」という書物にも排水量の欄は空欄になっているらしく、自身も解ってなかっという事かと、びっくりするというか、不思議だなあと思ってしまう。
その後、「幕末軍艦咸臨丸」という書物が出版され、その本も排水量の欄は空欄だった。
らしいが、その注記に「噸数については163,250,292,472の諸説ありて明確ならざれども 姉妹艦朝陽丸排水量300噸の記録あれば大概其見当なるべし」との記述があって この時から排水量は300トンというのが通説なって、300と云う数字が独り歩きしたらしい。
【船の科学館資料ガイド7より 側面イラスト 作画:西村慶明】
1969年に青山学院大学の名誉教授であられた片桐先生が咸臨丸が長崎に入港した折 長崎奉行所に提出した書類の中から「船の大きさ625噸」と記載された文章を発見された。またその頃発見された先述の図面から計算してみると600〜650トンと云う数字が 算出され記述と図面が一致したということです。
それからは625トンというのが咸臨丸の排水量ということになったらしいです。それまでの定説と倍ほど違うとはどういう事なのかと思ってしまう、排水量というのは船の大きさを表す一つの指標だと思っているので、こんなに違うことってあるのかと思う。
解っているようで、わからない話ってあるんですね。次号はもう少し細かい船の構造に迫ってみたいと思ってます。
引用させていただいた書籍
船の科学館 資料ガイド7 発行:(財)日本海事科学振興財 団 船の科学館
幕末の蒸気船物語 著者:元綱 数道 発行:㈱成山堂書店
◎スクリュー駆動可能の帆船
咸臨丸は当時としては最新鋭のプロペラスクリューで動く船だったんです。
オランダに発注する際、幕府は外車船が最先端の船だと思っていたので、その仕様で注文したのですが
オランダ側から今や世界はスクリューの時代ですって教えられ、仕様変更したぐらいで当時の船の技術は目まぐるしく変革した時代だったんですね。 投稿 米川
石炭を焚いて水から蒸気を発生させ、その蒸気をシリンダーに送ってエンジンを回転させ プロペラを回す、全く新しいシステムだったんですが、その水が海水だったため加熱された海水の塩分は 濃くなりボイラーを痛めるため長持ちしなかったらしく、建造後9年でエンジンもボイラーも取外して、ただの帆船になったという話です。
最後は残念な形になってしまったんですね
特筆すべきは、このプロペラは駆動シャフトから外れて船体上部に引き上げて格納できるようになっていたんです。
と言うのも、まだ石炭が高価な時代、ずっとエンジンを回して航海するのは高くつく、エンジンの効率も低かったんでしょうね。
それで陸から離れて巡航するときはセールを張って帆走、港に近くなるとプロペラスクリューと動力を切り替え。
そこでプロペラが水中に浸かったまま帆走すると抵抗が大きくなるので帆走中は引き揚げる。
理にかなった構造、なかなか面白い構造、着眼点がいいですね。
プロペラを四角い枠に嵌め、枠ごと持ち上げてプロペラを水中から出すという機構なんです。
そこで、疑問が湧くのは、当然引き揚げる前に駆動シャフトとプロペラを切り離す必要がある。
また逆に引き下げて定位置に置いた時、シャフトとジョイントしなければならずこのあたりはどういう機構で操作していたのか気になります
船の科学館資料ガイド7に内部精密解剖図が記載されいて、その絵を見るとエンジンからプロペラのシャフトの中間にクラッチがある。
なるほど、ここで切り離すのかまた、他の書物には脱着する前にプロペラが垂直に位置するように駆動シャフトを船の 科学館資料ガイド7 内部精密解剖図より手動で回転させていたともある。
なにかシャフトに目印でもついていたのかと、考えてしまいますねえ
プロペラとシャフトのジョイント部はどういう形状になっていたのか、詳しい記述がないのでわかりませんが、垂直の状態の時にスライドして切り離せるように、プロペラ側は平行の溝シャフト側は平行の突起、こんな機構だったのかと思いを巡らせるのも楽しいですね。
◎煙突が伸び縮み
咸臨丸の煙突は伸び縮みしたんです。 煙突は高いほうが排気が良く、エンジンの効率が上がる、でも帆を張って帆走するときは邪魔になる。それで帆走時は煙突を下げる。
これも非常に理にかなっているが、そんな船私は聞いたことがない。
三段の上下伸縮式でこの操作は機関室で手動でハンドルを回し操作していたとあるが機構の詳細はわからないが、びっくりしてしまいます。
◎ターンバックルでシュラウドを締める
シュラウドの船体への取り付けは当然三つ目滑車のデッドアイと思われていたのですが、
1974年に新潟の旧家から咸臨丸の帆装の図が発見されて、そこにはデッドアイじゃなくターンバックルで取り付けられていた絵になっていたんです。
ターンバックルが最新式だったんですね。ただ、それが良いとなればその後の船はターンバックルかというとそうでもないんですね。
以前に私が作ったブルーノーズは1921年のカナダの船ですが、バウスプリットはターンバックルで引っ張るようになってはいるんですが、シュラウドはやっぱり三つ目滑車を使ってるんですね。
それぞれに使い勝手があったのかなあと思いますね。
出典書籍
船の科学館 資料ガイド7 発行:(財)日本海事科学振興財団 船の科学館
幕末の蒸気船物語 著者:元綱 数道 発行:㈱成山堂書店
◎木造から鉄製へ
鉄は18世紀末にイギリスで大量生産する方法が開発され、色んな構造物に使用される事になり、 有名なものではパリのエッフェル塔、1889年のパリ万博時に仰天の塔が建てられた。
当然、船にも使用することが考えられた。 鉄は木よりも強い、座礁や衝突時に沈没する危険が少ない。 投稿 米川
鉄は工業製品なので材料供給の不安が少ない。確かに帆船を作るには大量の大きな木が必要となるため調達が大変。 なんと言っても、燃えない。火災のリスクが小さいというのは極めて喜ばしい事。
でも反面、磁気コンパスが狂うとか船底に余計なものが付着したり腐食したりと いい事ばかりではない。磁気コンパスの問題はその後イギリスで解決策が見出されたが
船底の問題は木造船のように銅板を貼るわけにはいかず(銅と鉄の電蝕作用で腐食するため)1860年台に塗料が開発されるまで待たねばならなかった。
はじめての鉄製の軍艦は1840年英国海軍が建造したネメシスという船らしく、アヘン戦争に参加した外車船との事。
鉄の船は強いのは良いが、攻撃を受け損傷した場合、その強さが裏目に出て砲弾で撃ち抜かれた穴は修復が困難となり、打ち砕かれ飛び散った細かい鉄片は人的に大きな被害を及ぼす。
なるほど!
そんな訳で英国海軍は鉄製の船は軍艦には適さないという大胆な結論に至ったということです。こういう事を通り抜けて来たんですね。
米国の黒船もオランダ製の咸臨丸も船体は真っ黒で一見鉄製にみえるが、木製なんです。
時代的には鉄製でもおかしくはないんですが、まあ技術革新というのはどの世界でも 一筋縄ではいかないという事ですね。
◎外車船からプロペラスクリュー船へ
船に蒸気エンジンを搭載した時、推進力を得る方法を水車と考えるのは、ごく自然な発想かと思いますね。
それで船の両側に水車を備えた外車船と呼ばれる船が1807年にハドソン川で商業船として就航し、その後大型の軍艦も作られるようになり、最大級の外車船としては日本に来た黒船のサスケハナやポーハタンで外車の直径は10mもあったということです。
ただ軍艦としての外車船は問題もかかえており、絶賛するものではなかったらしい。
軍艦なので大砲を両側に配置したいが船の真ん中に鎮座した水車が非常に邪魔となる
水車の位置からして、それを駆動するエンジンは水面上の船のど真ん中、そうなるとこれは恰好の攻撃目標、軍艦としては致命的。
一方スクリューのプロペラも早くから考えられており1840年代半ばに英国海軍のラトラーという軍艦でプロペラの開発テストが行われ、2翼のプロペラが成績が良かったということです。
そんな訳なのか 咸臨丸のプロペラも2翼ですね。
スクリュー船の開発で難しかったのは駆動のシャフトが船体を貫通しているため海水の
漏洩をどうして止めるのかという事に苦心したらしい。確かに!
1850年代に英国でシャフトの軸受にリグナムバイタという木材を使い、この問題を克服したん
です。この木は非常に多くの油分を含んでいる硬い木でそれまでの黄銅の軸受より摩耗が
少なく、漏洩問題を解決したということです。20世紀半ばまでこの方式だったというから
すごいですね。
面白いのは、1845年に英国海軍が外車船とスクリュー船で綱引きの実験をしているんです。
推進装置以外はほぼ同じ姉妹船。スクリュー船は先述のラトラー、外車船はアレクト、両艦の船尾をロープで結び、さあ、どちらが勝つか前代未聞のイベント。どれくらいの見物客が集まったかはわからないが、結構盛り上がったらしい。
最初、ラトラーが機関を停止し、アレクトが前進開始。2ノットでラトラーを曳航、その状態でスクリュー船のラトラー、エンジン全開、5分後ラトラーは引きずられていた状態から前進に!
潮目が変わった! この時見物客から拍手が湧いたかどうかは知らないが、暫くしてラトラーは2.8ノットの速度でアレクトを曳航したという。
このイベントでプロペラスクリューが優れているって事が証明されたが 元綱先生の「幕末の蒸気船物語」によるとラトラーもアレクトも公称馬力は200馬力で一見、公正なように見えるが公称馬力は蒸気圧を一定に固定した場合の計算式で算出した値で、あくまで公称であって実際は蒸気圧は変化するので最大馬力は異なり、ラトラーは360馬力、アレクトは280馬力でラトラーが勝つことは当事者には最初から解っていたとのこと。
スクリュー船の優位性を見せつけるためのデモンストレーションであったと思われると書かれている。
まあ、どの世界にも、こう云う事はありますわねぇ。
出典書籍
幕末の蒸気船物語 著者:元綱 数道 発行:㈱成山堂書店船の科学館 資料ガイド7 発行(財)日本海事科学振興財団 船の科学館
幕府が咸臨丸に代表される軍艦を急いで手に入れる必要に駆られたのは、それは取りも直さず、アメリカの黒船がやって来た、あの事件が全てなのですね。
大きく世の中が動いた衝撃的な大事件だったんです。 投稿 米川
◎ 黒船 浦賀に現る
ペリー提督率いる黒船艦隊は2度、来航しているんですね、最初からの計画通りに。
1回目、1853年の7月8日の夕刻、見たこともない馬鹿でかい真っ黒な船が真っ黒い煙を モクモクと上げて浦賀沖を進んできた。船は4隻、2隻は外車搭載の蒸気船、『サスケハナ』と『ミシシッピー』、あとの2隻は3本マストの帆船『プリマウス』と『サラトガ』
『サスケハナ』の排水量は3,824トン 当時の人が知ってる大きな船は 千石船、排水量は約200トン程度 実に19倍、度肝を抜かれるほどの大きさ!4隻の総排水量は1万トンを超える。
それが、1列に並んで砲門をこちらに向けている。
◎パニック状態の民衆
いつ大きな大砲が火を噴くかもしれない、もう恐怖ですね
家財道具をまとめて逃げる準備をする者が続出、それに輪をかけて流言飛語が飛び交う
何が本当かウソか、誰を信じて良いのか、もはや恐慌状態 食糧、日用品を買い漁る。物は無くなり、物価は一気に高騰、米も梅干しも、何もかも高いわ、無くなるわ、不安は最大限。
1974年のオイルショックのトイレットペーパー騒ぎを思い出しますね。関係のないものまで無くなってどえらい騒ぎ。
お寺さんまで、それに便乗し、社会不安を煽って御開帳、多くの人を集め黒船の鉄砲に当たらないという御守りを出して大儲け、このバチ当たり目が!
なんと言っても皆がびっくりしたのは船がバックしたことなんです。 風も潮の流れも関係無く 船がバックするとはどういうことか、しかも山みたいな大きな船が、はじめてそんな光景を 見た民衆は神がかりの船だと大騒ぎになったらしいです。
とにかく世の中がひっくり返るほどの大騒ぎだったんですね。
◎ペリーは何の目的で日本に来たのか
ペリーはアメリカ大統領の国書を日本のエンペラー、つまり将軍に渡すために持って来たんです。
国書には日本に対する要望が書かれており、一言でいうと『開国と通商』
アメリカは太平洋で捕鯨をしていて、補給基地を確保したかったのがとりあえずの目的で その後の開国と貿易に発展したかったんですね。
アメリカの捕鯨は食肉用ではなく灯油に使う鯨油をとるのが目的で、クジラが捕れなくなってきた大西洋から太平洋に 漁場を変え、アメリカの捕鯨船団は、日本のすぐ近くまで出没し、日本の海岸に注目していて、適当な寄港地を探していたんですね。
◎幕府にとって晴天の霹靂、寝耳に水の話だったのか?
黒船到来の事件は太平の世に突然降って湧いたかのように思っている人が多いが(私も含めて)実は外国の黒船が数年前から何十隻も日本近海に現 幕府も知っていて、黒船事件から10年以上前には英国の軍艦が隣の大国、清の国に戦争 仕掛けて、あの大国の清がコテンパンにやられたという情報も幕府には衝撃的に入っているんですね。
世に言う『アヘン戦争』ですね。
アメリカのペリー艦隊の事も少なくとも前年にはオランダの情報が長崎経由で幕府の耳には入っていた。ペリーという提督が率いる4隻の艦隊が来るという、そこまで解っていたんです。
それでも江戸幕府はなにも手を打たなかったというのが通説みたいですがそうでもなかったようです。
幕府の中心人物の代表は老中にあった阿部伊勢守(いせのかみ)正弘、彼はアメリカが来た時のために長崎で英会話の教育を始めているんですね。
それに交渉の戦略と江戸湾の沿岸警備に力を入れるんですが、開国の要求に対し、その答えは、どこを落とし所にするか、幕府の重臣一同も意見がまとまらず、結論が出ずのまま、その日を迎えてしまった。
それはそうですね歴代の徳川将軍が金科玉条のごとく大事に守って来た『鎖国令』、これとの関係をどうするのか。これは難しすぎる難題ですね。
浦賀に停泊するも、一向に埒のあかない幕府に、ペリー艦隊は、より江戸に近くにと船を進め金沢八景沖に投錨、このポイントをアメリカン・アンカレッジと命名、アメリカが投錨した歴史的なポイントとして命名したんですね。
余談になりますが太平洋戦争が終わって ポツダム宣言の受諾式がミズーリーの甲板上で行われたんですが、このミズーリーの停泊ポイントが、このアメリカン・アンカレッジなんですね。マッカーサー元帥もかなりの策士だったんですね。
「長崎に行け、江戸では会わぬ」「いや行かぬ、ここで会う」の押し問答の末、ペリーは強引に久里浜に上陸。
海兵隊、水兵、軍楽隊など300名を率いて隊列を組んで整然とした上陸 旗艦サスケハナからは13発の祝砲、派手な演出ではあるが、礼節を尽くした上陸式であったようです。
久里浜海岸で執り行われた国書授受の儀式は、双方ともに威厳を持った礼儀正しさで短時間に終了したとある。
幕府もとりあえず受け取るしか無く、一旦お引取り願った恰好ですね。
国書の内容に対する回答を来年の4月か5月に、より多くの艦隊を率いて再び来航し、受け取りに来ると言い放って 十日間の滞在を終え、ペリーは帰路についた。
出典元
船の科学館 資料ガイド7 咸臨丸 発行:(財)日本海事科学振興財団 船の科学館
船の科学館 資料ガイド4 黒船来航 発行:(財)日本海事科学振興財団 船の科学館
週刊ビジュアル日本の歴史49 黒船来航 発行:㈱ディアゴスティーニ・ジャパン
海軍創設史 著者:篠原 宏 発行:㈱リブロポート
ペリー艦隊大航海記 著者:大江 志乃夫 発行:㈱立風書房
NHK地デジ番組: 歴史秘話ヒストリア「日本人ペリーと闘う 「165年前の日米初交渉」
ペリー提督は約束通り、次の年の2月に再び浦賀に現われた。約束の4月か5月より早く。
他の諸国に抜け駆けされれば、元も子もないという心理が働いたのだろう、1回目の来航のあとすぐにロシアが来ている事はペリーの耳には入っていた筈。
2度目の来航は新たに蒸気外車船『ポーハタン』や帆走軍艦を加え全部で9隻の大艦隊でやって来た。 投稿 米川
庶民は、またまたパニックになりかけたが 同時に好奇心をくすぐられ黒船見たさに 野次馬が殺到して大騒ぎになったという。
迎え撃つ幕府側、老中の阿部さん、国書の回答を取りに来たペリー提督に対し答えのないままこの日を迎えてしまった。
直接の交渉役に儒学者で外交官の大学頭(だいがくのかみ)林復斎をあてた。この林さん、結構の凄腕らしく 冷静にして沈着、ペリー艦隊からの100発以上の空砲(礼砲)にも臆すること無く、また戦も辞さないとの高圧的な交渉にも「補給もできない状況でペリーが攻撃を仕掛けられる訳がない」と重臣たちを落ち着かせ、お互いの腹のさぐりあいで始まった交渉は、時には 丁々発止のやり取りもあり、林さん一流の駆け引きで、決してペリーさんに強権でねじ伏せられた内容ではなかったという事らしいです。
5つの港を開港させ、できれば通商条約の内容まで盛り込みたかったペリーさんであったが、下田と函館の2港の開港、通商の内容は今回は切り離すという妥協案で『日米和親条約』なるものが締結された。
日本もここで大きな歴史の転換点を迎えたということですね。
ペリー提督は強権的、強引、高圧的というイメージが強いがそれは交渉術としての一面であり、実際は非常に紳士的で事前に日本についてよく勉強し、日本人を理解しないと交渉を まとめることは出来ないと云う姿勢で挑んだみたいですね。
真面目で偉い人ですね。
幕府の役人たちを艦上に招き入れ、食事や酒を振る舞い、もてなす事も大事と接待外交も行なって、その際に出されたデザートのケーキには接待された各役人の家紋が付いた旗を刺し、これを見た幕府の役人は大変喜んだという。
こんな事、今でもなかなか出来ない事ですね。
◎ 贈り物の交換
条約の交渉が進められている間に、互いに贈り物の交換がわれたようでペリーは先進の技術を見せつけるために先端の機械を持ってきた。とりわけ電信機と汽車の模型は日本人の興味を引いた。
円形の軌道を走る機関車が乗るには小さいが、それでも汽車の屋根の上に乗った役人が袴をヒラヒラさせて乗る姿が面白かったとあり、ペリーの『遠征記』には日本人の喜ぶ姿が記録されている。
◎日本の観察
条約調印後、日本側からアメリカの士官を食事に招待している。どうも口には会わなかったらしく味が薄い、量が少ない等、歓待を得たことには喜んだが満足しなかったみたいですね。
前回も今回も浦賀に来る前に沖縄に寄って来ているが、沖縄で受けた接待の食事の豚肉や豚の臓物を使った琉球料理のほうが口に合ったらしく、琉球人は日本人よりも良い生活をしていると残している
日本の女性に対しての見方は好意的で、日本の社会においては女性が伴侶と認められていて、他のアジアの国の女のように家畜でも家内奴隷でもなく、ましてや浮気な淫楽のために買い入れられたものでもない。
一夫多妻制が存続しない事実は、あらゆる東洋諸国国民のうちで最も道徳的で、洗練されていると書かれている。
一方で街に出ると、公衆浴場でかなりの衝撃を受けたようです。なんと男女が一緒に入る混浴だったのです。(当時はそうだったのですね)
普段の日本人の礼儀正しく、控えめだけれど快活なそういう印象からは程遠い、光景のそのギャップの大きさに困惑した様子。一般的には道徳的な日本の民に、ある階級の民衆の 不道徳な面という書き方をしている。性に対してあまりにも放漫な姿に唖然とする一行の見方、感想が面白いですね。真面目で厳格な人柄が見て取れますね
こうしてペリー提督一行は、一定の成果をもって、3月21日に横浜を出港し、開港を約束した下田、函館の両港を視察し日本を後にした。
江戸幕府は今回の条約締結と世界の動きに対して、鎖国令を破棄し新たな展開を実行に移す必要にかられた。
出典元
船の科学館 資料ガイド4 黒船来航 発行:(財)日本海事科学振興財団 船の科学館
週刊ビジュアル日本の歴史49 黒船来航 発行:㈱ディアゴスティーニ・ジャパン
海軍創設史 著者:篠原 宏 発行:㈱リブロポート
ペリー艦隊大航海記 著者:大江 志乃夫 発行:㈱立風書房
大人のやりなおし日本史 TJMOOK 発行:宝島社
NHK地デジ番組: 歴史秘話ヒストリア「日本人ペリーと闘う 「165年前の日米初交渉」
※ 前号のコラム⑤で 阿部伊勢守の名前が 安倍になっておりました。訂正してお詫びいたします。
先にも書いたがペリー提督が最初に来航してから、約1ヶ月後ロシアの艦隊が長崎に来航,
アメリカだけではなく世界の大国が日本に狙いを定めている。もはや一刻の猶予も無い。
投稿 米川
老中の阿部さん、鎖国なんぞにしがみついている場合じゃない、日本も開国に向けて動き 大国に立ち向かえる軍艦、最新鋭の武器を持たねばと思ったんでしょうね。
阿部さんの事態の認識とその対処法は実に適確と言わざるを得ないですね。 ペリー2度目の来航までに幕府は動いていたのです。
阿部さんは長崎奉行の水野忠徳(ただのり)に 打診した。阿部さんも幕府の中では進歩的な考えの持ち主、水野さんも長崎で海外との通商を 取り仕切っていた経験でかなり進歩的、この二人が動くと事が早い。
水野さん。長崎に駐在しているオランダの 商館長クルチウス(今で言えば駐日大使に相当するか)を呼んでオランダから最新鋭の軍艦を購入したいと相談。
当時、日本が頼りになる西洋の先進国はオランダしか無かったのですね。
阿部さん、オランダへの依頼について徳川将軍に書簡で報告していて、それが面白い。
『幕府の必要な軍艦だけでなく、諸大名も必要となるので、軍艦はいくらあっても困る事は無いので、長崎奉行には軍艦50〜60隻をオランダに依頼するように言っておきました』と書いていて、まあすごい話というか、大雑把すぎるというか、日本も遅れを取り戻さねばと云う焦りもあったのでしょうね。
一度にそんな沢山の軍艦、武器を注文するって言われてもオランダも困るんですね。
数は別にして軍艦を提供するのは良しとしても、それだけでは宝の持ち腐れ、それを使えなければ意味がない。乗組員の教育をどうするかも決めて進めないとと進言。もっともな意見ですね。それで、クルチウスさんはどうすべきかを本国とやりとりをする、オランダとしても日本との関係は繋いでいきたい、従って日本の要望に答えることは有益である。
ただ今後、日本がアメリカ、ロシア、イギリス等の強国とどういう条約を結ぶのか、そこが気がかり、事実、オランダとの和親条約はアメリカやロシアとの条約締結の後なんですね。
また、厄介な事に、その時期にヨーロッパのクリミア半島を中心にで戦闘が始まっているんですね(ナイチンゲールで有名なクリミア戦争)オランダは中立の立場ですが、こんな時に極東の国、日本に大量の軍艦、武器を売って良いのかって、アメリカ、ヨーロッパの国々の顔色も観なくてはならない。ちょっとセンシティブに悩ましい問題なんですね
◎注文書の提示と妥協案
双方の事情があって、なかなか煮詰まらない交渉をなんとか水野さんがまとめ、『軍艦注文約定要旨』という形で提示していて、大まかに言うと7〜8隻の軍艦(内、蒸気船3〜4隻)を来年1854年の夏に長崎に回航を希望、教育で長崎に残留する者は市内の寺院を提供する、その他大砲の詳細仕様等があり、面白いのは将軍に献上するための蒸気船の模型2隻、蒸気船、帆船の専門書などが入っているんですね。
まあそれにしても来年には長崎にまで持って来いとはえらい強気ですね。
◎スンビン号とファビウス中佐がやって来た
そういう経過があって、翌年1854年の8月にバタビアから『スンビン号』と海軍中佐ファビウスが長崎にやってきた。
スンビン号: 3本マスト木造外車蒸気船
長さ 51.82m 排水量 780トン 150馬力 速力5ノット
ファビウスさんは3ヶ月間長崎に滞在している間 教育もさることながら、長崎奉行水野さんの問いに対する意見書をまとめ、提示しているんです。
当時の世界の海軍の大勢、日本が地理的に良い港湾を保有していて海軍創設に最適である事、将来の造船のこと、人材教育のこと、その手法等々、事細かに懇切丁寧に述べていて、水野さんはそれを海軍創設の基本構想としてまとめ幕府の阿部さんにお伺いを立てています。
阿部さんの事ですから内容の殆どに賛同し、ファビウスさんがバタビアに帰るまでに幕府の 見解を伝えているんです。仕事が早い!
ここに日本海軍の設立の草案が出来、いよいよ動き出したんです
ファビウスさん、翌年の1855年6月にスンビン号と教育のための派遣隊長ペルス・ライケン大尉を引き連れて長崎に再度来航。 ここから実質的な海軍の創設とその教育が始まったのですね。
出典書籍
幕末の蒸気船物語 著者:元綱 数道 発行:㈱成山堂書店
海軍総説史 著者:篠原 宏 発行:株式会社リブロポート
長崎海軍伝習所
◎ 『スンビン号』を幕府にプレゼント
1855年の夏、ファビウスさんが2度目の長崎に来航した時 海軍中尉ペレス・ライケンさんを引き連れスンビン号とへデー号の2隻でやって来たんです。
そしてそのスンビン号は国王ウィレム三世から徳川将軍家定に献上品として持ってきたと長崎奉行の水野さんに伝えた、つまりタダでプレゼントしますという事。この船を正規の練習船として活用し海軍の教育を年内に開始したい旨を伝えた。
投稿 米川
でもまあ、すごい話ですね、蒸気船1隻贈りますとは、まだ5年くらいしか経ってない船なんですよ。日本としてもタダで手に入るとは思ってもいないこと、『渡りに船』とはまさにこの事。
ただ、このオランダ側の好意と取れる対応は、多分、艦船の注文に十分に応えることが出来なかったから、なのかと思うのですが。
それで、その軍艦の注文はどうなったか、というと軍艦7,8隻の要望に対し、最終決定は蒸気船のコルベット艦2隻のみと随分縮小されたようです。
コルベットというのは艦船の大きさの等級で、当時のオランダ海軍の艦級は大きいものから戦列艦、フリゲート艦、コルベット艦、スクーナー艦、ブリック艦の順となっていました。
スンビン号贈呈の話はこの縮小された話の穴埋めの意味合いもあって、商館長クルチウスさんが考えたものらしいですが、水野さんの頑張りもあったんでしょうね。
贈呈に対して幕府側からの返礼品として 鎧兜一領(1Set)、黄金の太刀一振、長刀一振 金屏風五双、備前焼大皿一組を贈ったと記されています。
◎ 咸臨丸の価格は? 支払いは?
後の咸臨丸含むコルベット艦2隻の注文にいくら払ったのか、そこに感心が行くのですがどうもここのところがハッキリ解らないんですね。何も支払いの記録が残ってないようなんです ただ、最終の注文書には1隻について25万グルデン(ギルダー)まででお願いしたいみたいな記述が残っているのですが、この25万ギルダーってどれくらいの価値かがわからない。
いろいろ調べてみると、当時、商館長はじめオランダの人が長崎で働いていた年収を今の日本の給料に換算すると1万グルデンが約1億円だろうとのネットの記事を見つけて(商館長は年収15000グルデンだったらしい!)そのまま使わせてもらうと、咸臨丸は約25億円くらいに相当するのではと推測ができる。
では、支払いはどうしたかと云うと『十分の二は小判、銀または銅で、その残額は通常の貿易品で支払う』と記載されていて、つまり20%は現金で、といっても当時は国際通貨に関して何の取り決めもされていないので実質的な重さの金または銀で、その他は貨幣じゃない品物になったんでしょうね。
◎長崎伝習所の開設
スンビン号は幕府に献上された後、名前を『観光丸』に変え(国の光を見るという意味)日本の海軍の第一号の練習船に生まれ変わりました。
海軍教育の場として『長崎海軍伝習所』が出島の隣の長崎西奉行所を校舎として活用され、航海術造船術の習得を中心とした日本初の海軍学校が設立された。教師団長ペルス・ライケン大尉以下22名の教育派遣隊で教授陣を固めた。
江戸城無血開城等で歴史に名を残した勝海舟(海舟は号、幼名麟太郎、後に安芳と改名、この時点では、勝麟太郎)は幕府への意見書を老中の阿部さんに提出して、その才能を見出され、この海軍伝習所の伝習生の総督(監督格)として抜擢された。ここからこの人の出世街道が始まるんですね。
第一回の伝習生は53名、開所式は1855年12月1日、伝習生は学生といえど、いずれも壮年に達したサムライたちであったとライケンさんの弁
授業は朝8時から昼1時間の休憩を挟んで夕方4時まで、授業内容は 航海・運用術(ライケンさん直々に教授)、造船、砲術、船具、測量、算数 蒸気機関、銃砲訓練と多岐にわたるが、授業はすべてオランダ語。
日本人の通訳が訳して伝えるが専門用語も多く、どう訳していいか分からず最初の2,3ヶ月は相当苦労したようです。
ファビウスさんの意見書には伝習所を設ける前にオランダ語の学校の設立の要望が入っていたが、なぜかそれだけは聞き入れられなかったようです
座学は広間で行われたので冬の寒い日でも火鉢があるだけなので、南国のバタビアから来たオランダの教授陣には寒さがきつく、改善を申し入れたようですが、聞き入れられなかったみたいです。
出典元
海軍総説史 著者:篠原 宏 発行:株式会社リブロポート
長崎海軍伝習所 著者:藤井 哲博 発行:中公新書
週刊ビジュアル日本の歴史50 徳川幕府の衰退10 発行:㈱ディアゴスティーニ・ジャパン
◎ 第一次教師団の教育
長崎海軍伝習所は永井玄蕃頭(ながいげんばのかみ)を総督(所長)として組織された訳ですが、この人は後に日米通商条約の遣米使節団のリーダーに任命され、その時に咸臨丸での太平洋横断を企画し幕府へ申し入れをした人なんです(後に使節団から外されたみたいです)
投稿 米川
教授陣は先に述べたペレス・ライケン中尉以下22名の第一次教師団で構成されたこの教師団は1855年12月から最終閉校となる1859年9月まで4年弱の間で途中交代となるんです。
オランダに発注した咸臨丸が納船されるとき、操縦してきた者がそのまま第二次の教師団として交代する予定だったんです。
従ってライケンさんは咸臨丸がやって来るまでの教師団長なんですね。また、生徒となる伝習生はこの4年弱の間に幕府側から推薦を受けた人が3期に分かれ入校し、他に佐賀藩や福岡藩からの推薦者も2期に分かれ総勢400名を超えるの人が学んだそうです。
伝習所での教育は実際の軍艦の乗組員の養成を目的としており、幕府側としてはオランダから譲り受けた観光丸と既にオランダに発注してあるコルベット艦2隻の計3隻分の乗組員を想定して270名程度を考えてはいたが一度にそんな沢山の教育も難しいのでまずは第一陣として基幹要員だけを教育しようと考えたんです。
そこでまず、3隻の軍艦の艦長候補として勝 麟太郎含む3名が推薦され、伝習所での学生長として選ばれたまた、幕府側から艦長候補とは別に特別指名された人が
小野友五郎、この人も後に咸臨丸の太平洋横断に参加することになった人で、幕府の天文方のホープらしく(天文方という職種があったのですね)数学にも精通しており、一般の生徒とは別に『航海測量』を専門に習得することを命じられた人なんです。
◎ 文化、風習の違い
長崎海軍伝習所は海軍の兵学校というより、軍艦の総合技術学校の色彩が強く、入校時より業務を想定した要員に分けられた。例えば士官要員、下士官要員、その下の海兵隊以下と云うように、ただそれはそのまま軍艦乗船時の上下関係となってしまい、入校時の伝習生といえど、幕府の役人なので、それぞれの身分があるわけで、今と違って封建社会の事なのでその当てはめに苦心した様子がうかがえます。
また、日本人の文化として上司、目上の人、身分が上なのか、下なのかでその対応が変わることがあり、実際、ライケンさんら教師団が苦労したのも、その辺りらしく自分よりも身分の低い者からは物事を教わらない。とか士官は通常の艦上業務は下士官以下のものにさせて、それらを学ぶ姿勢がないとか、オランダ人からは理解しがたいほど奇異なものに映ったらしい。
困ったのは通訳の者が日本の上司からの伝言は忠実に訳すが、教師団から総督にたいするクレームなどは曖昧にしか訳せず、その真意が一向に伝わらず苛立つ事も多かったようです
身分の高い伝習生に対する叱責も通訳によっては骨抜きにされることは日常茶飯事で教育事態にも悪影響が及ぼしたと教師団から思われていたようです。
この辺りは文化の違いがまともにぶつかり合うことなので、古今東西いつの世も難しい事のひとつですね。
◎艦内の火気の取り扱い
ライケンさんが艦内の生活で一番気にした事は食事の時に伝習生が各自、コンロを持ち出して炊事をすることなんです。また好きな時に好きな場所でタバコを吸い、火鉢の炭火でお茶を沸かして飲むこと。
一つ間違えれば、艦内のことなので取り返しのつかない事態になるというこを厳しく躾ようとしたが、これも国民的な習慣なので一朝一夕ではなかなか改まらず、頭を痛めたらしい。
後に咸臨丸に乗船した福沢諭吉も火鉢の炭火でお茶を沸かそうとして、もう少しで咸臨丸を焼いてしまうところの失態を犯したと言われている
◎ライケンさんの人物評価
ライケンさんは小野友五郎を高く評価しており、授業とは別にライケンさんの出島の宿舎に彼を招いて西洋式の微分、積分、力学などを教えているんです。
一方、勝麟太郎は数学が苦手で理論的でなかったので理論派のライケンさんから見れば劣等生に見えたらしい。所謂『あいつは口ばっかし』という事になるんですね。
◎勝の留年
長崎伝習所とは別に幕府の思いとして江戸に軍艦操練所をつくる話が持ち上がり、実際1857年に開所されるんですが、その教授陣に長崎の第一期伝習生を当てようとし、まだカリキュラムが全て済んでいないにも関わらず卒業させ江戸に帰る命令を出すんです。
当然、ライケンさんは反対するんですが、押し切られ1957年3月に総督も交代し永井さんも一期伝習生と共に観光丸で江戸に向かったのです。
この年の秋に咸臨丸が来る予定で、その時に教師団も交代となり、先生も生徒も一度に交代は問題があるというので、学生長の勝を長崎に残らせて、取次の任に当たるという筋書きを建てるんですが、実際には出来の悪い勝麟太郎の処遇に困っていたらしく、軍艦操練所の教授をさせる訳には行かず、とりあえずの留年処置となったようです。
ところが本人はその処遇に対して不満をぶつけるわけでもなく、それを良しとしたとの事 憶測では勝はその当時長崎に妾を作っていたらしく、もう少し長崎に居たかったのだろうとの事 江戸に本妻を残し単身赴任だったので、これ幸いに女遊びにうつつを抜かし子供まで作っていたとのこと。
それにしても皆が勉学に励んでいる時に、色恋に励んでいては学業もおろそかになろうというもの、この人、勝麟太郎は生涯で5人のお妾さんを作ったとか言われており、すごいと言うか、呆れると言うか、ある意味大物なんでしょうね。
出典元
海軍総説史 著者:篠原 宏 発行:株式会社リブロポート
長崎海軍伝習所 著者:藤井 哲博 発行:中公新書
咸臨丸、大海をゆく 著者:橋本 進 発行:海文堂出版㈱
◎咸臨丸の到着と教師団の交代
1857年9月22日待ちに待った蒸気コルベット艦『咸臨丸』(オランダでの造船時はヤーパン号、引渡し後咸臨丸)が長崎に到着した。
艦長はライケンさんと交代し教師団長となるカッテンディーケ大尉、それに本国で選ばれ編成された教師団37名が乗船。第一次より教師団の規模は大きくなった。それはライケンさんから情報として
米川 投稿
日本人は広い知識や技術を欲していると聞いていたので、対応してくれた結果、大所帯になったようです。航海術の他に乗馬術、活版術、医学、羊毛の処理までの専門家をつれて来たようなんです。
◎ペレス・ライケン教師団の帰国とお礼
咸臨丸の入港から1ヶ月後、ライケンさんの教師団はオランダ商船で帰国の途についた咸臨丸が外海まで曳航し、礼砲とともに日本人伝習生全員が見送ったとあります。幕府から教師団に対し下記目録の商品が御礼の品として贈られた。
目録
団長に対し 刀二振りと銀35枚 及び 羽織20枚 各士官に対し 刀一振りと銀15枚 及び 羽織5枚 下士官、兵に対し 絹織物及び漆器
そのうえ教師団全員に帰国後一定期間、日本で受けていた特別手当を与えるとの約束もした団長は5年間、一等士官4年間、二等士官3年間、その他下士官及び兵は2年間という内容が盛り込まれていた。
幕府としても相応のお礼を考えたのだと思うのですが、当時の財政は逼迫していたらしいが それでも、感謝の気持ちを表したのですね。でも、羽織とは面白いというか、お値打ちの羽織だったんでしょうね。
余談にはなりますが第一次のライケンさんにしても、第二次で派遣されたカッテンディーケさんにしても後にオランダの海軍大臣の地位にまで昇り詰めた人なんです。そう考えると、オランダとしても結構本気で取り組んでたのかと思いますねえ
咸臨丸そのものにしても、大枚はたいて買ったつもりが、中古のいい加減な船を掴まされたとしても、当時のこと、仕方がないところを、きちっと誠意を持って、新造船を約束通りに届けてくれた。オランダからすればはるか極東のちっぽけな国でしかない日本を、結構重要視していたんですね。
◎カッテンディーケ団長による教育の変化
先のライケンさんは技術・理論畑の人、カッテンディーケさんは運用畑の人、おのずとその教育方針は変わろうと云うもの。
艦船の運用は訓練と規律によって左右される、という考えのもと、セールの操作、ヤードの上げ下ろし船底の清掃と普段のルーティーンワークの比重が大きくなり、訓練の繰り返しにより体に覚えさせるということを徹底した。
覚えが悪いと体罰も大いに行われたというオランダ海軍もそういう風土であったとのことでそれを日本に持ち込み、規律を徹底させようとした。
ところが当時の日本人は極めてルーズなところがあり『規律も規則も何もない』と嘆いている。
時間を割いて諸規律を説明し日本にも同じような規則が必要であると説いても、ほとんど無駄骨に終わったと回想録にある。
ライケンさんはバタビアに一旦派遣され、その後日本に赴任した人、カッテンディーケさんは オランダから直に日本に来た人、やはりカルチャーショックの段差の高さは大分異なる。
でも、その一方で伝習生に対しては理解力が高く、旺盛な好奇心と記憶力に恵まれ、覚えた知識を拡充していければ、立派な海軍士官にはなれると評価している。
カッテンディーケさんが危惧しているのは彼らが海軍士官に成るとの目標で勉強、訓練しているのかということ、なかには立身出世のステップとして伝習所を踏台にしている人間もいるのではという懐疑的な見方もしていたようです。
日本はイギリスにも劣らぬ海軍国になる必要条件を満たしており、是ともそうなって欲しいと心からそう思っていたようですね。
◎勝さんの評価
ライケンさんから劣等生の烙印を押され、留年した勝麟太郎、カッンディーケさんに代わって評価はどうなったのか、気になりますねえ。
それが劇的に変化するんです。カッテンディーケさんから見れば『オランダ語をよく理解し、性質も至って穏やか、明朗で親切、すこぶる頭が良く、どうすれば我々を最も満足させ得るかという事をすぐに見抜いてしまう』 もうベタ褒めですね。
学生長としてまとめ役として非常に頼りになる人間だという最高の評価です。まあ、人の評価というのはこれほどまでに異なるものなんですね、どっちの角度ら観るかそれで、光と影が全く違うんですね。 このたぐいは我々も多くの人が経験していますがね
でも、勝さんという人は恐ろしく強運を持ち歩いている人なんですね 後に江戸へ戻った時は軍艦操練所の教授方頭取の役についているんです、教授陣の一番上ですよ、伝習所を落第した人が、もうびっくりというか、能力を発揮できるところにスッポリと嵌ったという感じですね。
◎長崎伝習所の閉鎖通告
カッテンディーケさんの訓練のおかげで咸臨丸での乗船実習での腕も上げ、近海の巡航へと着実に上達し1958年には4回の九州周辺及び九州一周の巡航実習の実績を積んだ。
そんな矢先、長崎奉行からクルチウス弁務官(商館長)に対し口頭で『伝習所に対し予期せぬ障害が生じ、早々に伝習生を江戸に返す処置を取らねばならなくなった』と通告して来たんです。つまり、伝習所は閉めますと言ってきたんです。
誰も予期せぬ奇怪な通告に対しカッテンディーケさん不愉快極まりなく、閉鎖の真相を掴みたいと探ってはいたのですが、結局掴み得ないまま、1859年の秋に帰国の途についていて『いったい如何なる動機でかくも奇怪な決定に出たのか、真相は永遠に謎として残るであろう』と書き残している。 何の説明もなく解雇され全て無くなってしまうのですから、悔しいですよね。
◎事の真相は?
その前年、1858年に幕府はオランダとの通商条約の交渉を行っていて、上京したクルチウスさんから『オランダがこれまで軍事教育を施して来た事について、英米その他列強がオランダは日本を使って英米に敵対行為をとらせようとしているとの誤解を生じ、公式にオランダ政府から軍事教育者を派遣することは難しくなってくる』という言葉が出て、私的に切り替えるべきかという相談をしているんですね。
どうもこの辺りの問題が大きくなって、閉鎖せざるを得なくなったのではと言われている。
まあ、開国すれば、外交という厄介な道をバランスをとって歩かなければしょうがないんですよね。
オランダと清の国だけを相手にしておけば良かった幕府もいよいよ西欧の列強相手に立ち回らなければならない事態に時代は大きく廻り始めたのです。
出典元
海軍総説史 著者:篠原 宏 発行:株式会社 りぶろぽーと長崎海軍伝習 著者:藤井 哲博 発行:中公新書咸臨丸、大海をゆく 著者:橋本 進 発行:海文堂出版㈱フリー百科事典 ウィキペディア 『ヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケ』
◎ 別船仕立ての発案
1858年7月29日(安政5年)日米通商条約が品川沖のポーハタンの船上で調印された。
この時、1年以内に批准書の交換をワシントンにて行う、そのための使節を日本から派遣する。 という取決めがなされたんです。
その後4名がその任を命じられたんですが、そのメンバーに水野忠徳、この人は前述した人で長崎奉行のときに軍艦購入と伝習所の設立に貢献した人。
投稿 米川
永井尚志(ながいなおゆき)、この人は伝習所の初代総督として貢献した人。4名のうちには、やはり長崎にて海軍創設に寄与した人が選ばれた。
この遣米使節団の発令後、幕府老中に対し『アメリカ国へ別船仕立ての儀』という申入書を企画・提出しているんです
発信元はこの水野さん、永井さん、 渡米の際アメリカの軍艦とは別に日本の船を出してアメリカまで行かせて下さいとの、申入れなんです。
長崎で習得した航海術を外洋で経験させてあげ、アメリカの海軍を実際に観ることで日本海軍にも反映したいという思いなんですね。
幕府老中からの答えは『No』3年そこそこで勉強したからと言って一人前の顔をするなと言わんばかしの返事、大海でアメリカの軍艦から離れたら、自船の位置も分からず、方向すらつかめない中でどうするとでも、言うのか、とケンモホロロ この時は、水野さん、時間を置いて、翌年、再度の申入れ。
『測量術については理論も実技も充分に会得し、六分儀、クロノメーターによる測量も完璧に使いこなせるようになっております』と切々と訴えるんですね。
諦めないと言うか、千載一遇のこのチャンスをものにしないでどうするのかと、必死の様子がみえますね。ところが老中からは何の反応もなく無視されるんですね。
幕府にしては、逼迫した財政の折、そんな不要不急のものに金が掛けられるかと言うことと、開国のゴタゴタと、将軍の後継問題で幕府内部が大揺れの時 かまってられないと言うのが本音なんでしょう。
実際に井伊大老の意に反する者への弾圧が始まったのです。世に言う『安政の大獄』ですね。そのあおりを受けて先に決定していた遣米使節団のメンバーは交代となり、永井さんは政争に巻き込まれ全ての職を免職され、幕府外に追放の罪。
少し前まで得意の絶頂にあった永井さん、別船仕立てどころでは無くなったんです。封建時代とはいえ、永井さん、悔しかったでしょうね。
水野さんはメンバーからは外されたが、かろうじて軍艦奉行には留まることができた。
批准書の交換期限の1年以内が過ぎ、アメリカから軍艦ポーハタンをよこすと連絡があり、新たな使節団のメンバーが決められ発令します。
この時に再度、一度消えた随伴船のことも論じられるようになったんです。
そこで、再度の水野さん、今度は作戦を変え『使節団の正使はポーハタンに乗船するが、正使に万が一の事態が生じた時、を考えると別の船に副使を乗せ渡航するという案が適切と思われる』と、この1点に絞り、訴えるんです。
この人、タフと言うか、やはり日本海軍の創設は自分がやって来たとの自負心が有るんですね。 そういう紆余曲折があり、日本の軍艦で太平洋を渡るという英断を幕府から引き出すんです。 幕府から命じられた咸臨丸ではなかったんです。
そんな中、軍艦操練所の教授方頭取の職にあった勝さんはどうしていたのか 人一倍、海外渡航の夢が強い勝さんの事、永井さんが使節団のメンバーであった時は、永井さんに手紙を送り、外された後は水野さんに手紙を送り、思いの丈を伝えているんです。乗組員の人選に鍵を握る二人に早くから猛烈に働きかけていたんですね。
高級官僚の水野さんからみれば下級武士の勝さんでしたが、一目置いていたのか、丁寧に返事を返しているんです『心配しないで任せてほしい』と。
◎ 船の変更でおおわらわ
当時、幕府が所持していた軍艦は最初にオランダから貰った
『観光丸』 排水量781トンの外車蒸気船海軍伝習所の練習船
『咸臨丸』 排水量625トン スクリュー蒸気船
咸臨丸と同時に発注した姉妹船『朝陽丸』625トン スクリュー蒸気船
英国から1859年に贈与された『蟠龍丸』 370トン スクリュー蒸気船
蒸気船としてはこの4隻
水野さんが選んだのは言うまでもなくスクリュー船の『朝陽丸』(咸臨丸はこの時期長崎行きが決まっていた)
水野さんから勝さんに朝陽丸の準備をするようにとの指示が下された。
ところがところが、ここでまた難儀なことが起こった水野さんが軍艦奉行から外され閑職にまわされたんです。勝さんにすれば、折角ここまで来たのにと云う思い、頼みの綱も無くなった。
人が変わると、言う事、する事も変わる、これも世の常。力のあった水野さんが居ないことを良いことに『朝陽丸』より、より大きな船でと 単純にただそれだけで『観光丸』に変更されてしまったんです。
『朝陽丸』の整備保全や伴奏船としての準備に大わらわの勝さん、はらわた煮え返る思いであるが、従うしかない、抗議しても無駄だからと諦めの境地。
それだけじゃなく水野さんが去ると、勘定奉行が動かない。お金を出してくれるところなんで、承認を貰わないと食料・日用品の調達も出来ない。
わからん者を相手に毎日奔走するんです、天を仰いで、ため息をつきながら
でもこの人も粘り強いんですね、説得し、人を動かし、なんとか形にするんですね。
◎ 船とメンバーの決定
新しい軍艦奉行に木村喜毅(きむらよしたけ)が任命され、遣米使節団の副使として観光丸に乗ることが決定された、この人は長崎海軍伝習所の第二代総監として赴任した人で 勝さんとは当然面識がある人なんです。
老中から木村さんに呼出がかかり江戸城にて、正式に副使として渡米する旨が言い渡され、同時に乗船メンバーの発表があった。
そのメンバーには勝麟太郎の名も含まれ、同じく伝習所で測量術を学んだ小野友五郎、通弁主務(通訳)として中浜万次郎(通称ジョン万次郎)、後に有名人と成る福沢諭吉が従者として名を連ねている。
その他水夫65名、火焚(炊飯?)16名、医者、大工、鍛冶を含め100名を超える陣容が発表された。
でも、まだゴタゴタは続くんです なぜ『観光丸』に決まった船が実際には咸臨丸になったのか。
出典元
咸臨丸海を渡る 著者:土井良三 発行:㈱未來社 咸臨丸、大海をゆく 著者:橋本 進 発行:海文堂出版㈱ 幕末の蒸気船物語 著者:元綱数道 発行:㈱成山堂書店咸臨丸 栄光と悲劇の5000日 著者:合田一道 発行:北海道新聞社
◎ブルック大尉一行の乗船
一度は決まった、別船仕立ての太平洋横断のメンバーであり、船であったがここに来て新たにブルック大尉とその部下10名のアメリカ人が乗船するという話が突然、持ち上がった。
投稿 米川
その話の経緯はこうであった。ブルック大尉はアメリカの測量船、フィルモア・クーパー号(排水量95トンの帆走スクーナー)の艦長として太平洋を中心とした測量調査を命じられ、日本近海の測量のため調査中、横浜に1859年8月に到着し、上陸中、台風に遭遇し船が難破してしまい、修理不能で帰る船を失い横浜に住みながら帰りの機会を伺っていたんです。
そんな中、遣米使節団の話や別船にて太平洋を渡るという話を耳にし、帰る機会を得たと云うことなんです。
単純にそれだけだったら、遣米使節団の迎えの船ポーハタン号に乗船すれば良いことなんですが、別船への乗船案の裏には日本の軍艦として初の太平洋横断の偉業に乗じて日本人を案内してその試みを成功させ、手柄にしたいという功名心があったことは確かなようですが、純粋に手を貸してやりたいとの思いもあったようです。
当時33才のブルックさんは15才で海軍に入隊し。経験豊かな帆船乗りであったこと、数少ない太平洋横断の航海経験を有する人物であったこと、既に何人かの日本人との航海経験もあり横浜にも住んで日本人への理解と馴染みがありそれらが複合し日本人の手伝いをしたいと言う思いがあったようですね。
ブルックさんはポーハタン号入港後、その艦長と別船について討議し、冬の太平洋を渡るには古い外車船ではなく新しいスクリュー船にすべきだとの結論に達し、なんならポーハタン号から必要な人間を差し向けよう、とまで言ってくれたこの討議内容の文章が幕府にわたり、幕府から『観光丸以外の船に変えよ』との指令が出された。出港まで1ヶ月を切った時点である。
◎またまた腹ワタ煮えくり返る勝さん
船はその時点で咸臨丸しか都合がつかず、そういう経緯で咸臨丸に決定ブルック大尉とその部下10名の乗船も決定されたんです。
この話を聞いた勝さん、怒り心頭。 もともとスクリュー船でという意見をひっくり返し、観光丸に変え、大変な思いで準備、積込みを昼夜徹して行い、ほぼ完了したこの時点で、スクリュー船が良いとは、どういう事か、自分たちの意見は聞き入れず、アメリカ人の言うことは二つ返事で『そうですか、ではそうしましよう』とはあまりにも軽々しく情けないと、もう爆発しそうなんですね。
自分たちが主張していた案なので、基本的には同意出来ても、勝さんは会社でいえば、中間管理職みたいなもの、部下への説得という難関が待ち受けているんです。
アメリカ人の乗船に関しても、日本の士官にとっては日本人のみで偉業達成へと血気盛んな連中をどう納得させるか、困った困ったの連続。
正直言って木村さんも勝さんも、日本人のみの太平洋の航海には一抹の不安は持っていて、自身は絶対反対ではなかったのです。確かに名誉もありますがなにしろ命が掛かっていることですからねえ。
そんな話を聞いてから2日後、木村さん、勝さんはブルックさんと咸臨丸の船上で
会っているんです。どちらから声を掛けたのかは定かではないですが。
◎ブルックさんを気に入った勝、士官の説得へ
ブルックさん、咸臨丸を観て非常によく整備され、良い船だとの印象で大変気に
入った様子だったらしく、木村さん、勝さんらと快く会談に応じている。
多分、勝さんにとってはブルック大尉の人物見極めとしての面接の位置付けだったのでしょう。
いろんな質問をして力量を測り、航路に関してはブルックさんから、事前に準備してきた綿密な航海図で説明し、状況変化への誤差への対応測定方法、修正方法等、事細かに丁寧な説明があった事で、勝さんとしては申し分のない力量を持ち合わせた人物であると惚れ込んだようです。
その後、士官を集めて勝さんこう言った『ブルックらアメリカ軍人が日本に滞在中、幕府から受けた手厚く、温かい待遇に感謝して、この船に同乗して我らに助力したいと願っており、幕府の許可を得て同乗させるものである』こういう理屈をつけた言い方が、たぎり立つ士官らを抑えたと云うことらしいです人の上に立つリーダーとしての風格が見えますねえ。
◎船の変更、水夫への説得 勝さんの奇策
休日返上で大変な思いをさせて観光丸の準備をし終わった矢先の船の変更またそれを水夫達に強いることになる。帆船の静索、動索と無数にある索具を整備するだけでも大変な手間、その上食料、荷物、石炭の積替えと重なる重労働、例えば米だけでも俵(約60Kg)にして190俵、これを観光丸の船底に積んであったものを引き上げ、陸上を咸臨丸まで運び、その船底に下ろすという作業こんな作業が3度目になる。水夫たちの不平も最高潮、それら不平、不満、嘆願その全てを引き受けなければならない勝さんの立場。
観光丸に変わった時点で『これ限りだから、ワシに免じて辛抱してくれ』って言ったかどうかは知らないが、そういう状況だったろうと想像がつく、それが今や面目丸潰れ、下船すると言い出す水夫が多数現れ、収拾がつかなくなる事態。
こんな無用の事にこきつかわれるのは真っ平御免だ、とてもアメリカまでついて行けないと騒ぎ出した。
そこで、勝さんどうしたか
木村さんに無断で2日ばかり雲隠れしたんです。 それで木村さんは水夫たちに向かって『勝さんはアメリカ行きを辞退された』と話をしたんです。
水夫たちは長崎以来ずっと恩を受けている勝さんが幕府の命令に反して我々のために罪を得るようになっては申し訳ないと、下船を取り消し、命に従うと申し出たという事です。 反乱寸前で留まったということですね。
その3日後、勝さんは水夫たちに対して大幅にアップした手当を支給したんです。
この手当に関してはその少し前に幕府に掛け合い、あまりにも低い士官から水夫までの手当を揚げてほしいとの要望書を出し、認められて、水夫に対しても給与の2倍の航海手当が加算されるとの内容をこの時点で支給を実施したものだったんです。
勝さんから見れば、下級の水夫たちに対しても親身になって面倒を見てきたからこその、雲隠れという奇策が通じたんですね。
リーダーとしての懐の深さを感じぜずにはおられないですね。そんな事があって、この件に関しては丸く治まったとあります。
正にこの様な紆余曲折があって、咸臨丸の決定、及び乗船メンバーが決まったという事ですが、歴史とはこの様な偶然とでも言うべき事柄が折り重なって出来上がって行くものだと思うと、人の運、物の運、そんなめぐり合わせの縁(えにし)とでも言うべきものが歴史の裏側には存在するということを感じてしまいます。
出典元
咸臨丸海を渡る 著者:土井良三 発行:㈱未來社
咸臨丸、大海をゆく 著者:橋本 進 発行:海文堂出版㈱
咸臨丸 栄光と悲劇の5000日 著者:合田一道 発行:北海道新聞社
◎何を積んでいったの?
出港が迫る中、咸臨丸の準備は着々と進み、索具、帆の修理、機関の調整、荷物の積込み等が急ピッチで進められていった。
積み込んだ荷物について、何をどれだけ持っていったか、大いに気になるところ 記録が残っているので列記してみることにしましょう。
投稿 米川
その前に、この当時は当然、尺貫法なのでメートル法との関係の理解が必要となり体積では1合は180ml、その十倍で1升、またその十倍で1斗、その十倍で1石(こく)となり1石は180リットルとなる。 逆に1合の1/10は1勺(しゃく)で18ml。
重さでは1匁(もんめ)が3.75gでその1000倍が1貫(かん)で3.75kg、その途中に1斤(きん)というのがあって1斤は600g
この辺りを頭に入れて観てみると基本的には1人・1日の消費量をベースとして、それに日数を掛けて算出している。
◎主食の米は
1人1日、5合食べるとして、その100人分✕渡航日数150日分で算出。総量として75石となり、米1斗は約15Kgなので、総重量11トン250Kgとなる。
1日の1人が5合食べるというのにまず、びっくり。 大きめのお茶碗に約10杯はあると思うが、平均で1食、3杯強食べるということなる。昔の人はよく食べてたんですね、小さい体で。 今の人の3倍は食べてますね。
それと、150日分という算出基準、片道40日程度と観ていたんだから、80日程度で良い筈。
多分、アメリカ滞在中も計算に入れていたようで、はなから異国の食べ物は自分たちには合う筈がない、との思い込みで計算したようですね。
ただ、船上では水は貴重なので、洗米のために水を大量に使うわけにはいかないとの思いで、米は糒(ほしい)にして積み込んだとありますが、糒とは一度炊いたご飯を、天日干しにして、乾燥米にしたもので、水を入れて炊いたらご飯となり、そのままでも食べられるもので、いわば保存食であり、非常食なんですね。
全て糒にして積み込んだのか、何割かは精米した米を積み込んだのかはそこまでの記述は無いみたいで、わからないです。
◎水はどれくらい?
水の消費は1人・1日、2升5合(4.5リットル)としてその100人分✕40日分 水は米とは違い、腐敗するので、片道分のみ。
40日分で100石(18000リットル)、それを24基の鉄製の櫃(ひつ)に入れたとあるので、単純計算で750リットル/櫃となり、800リットル入る櫃と考えると大きさは 幅1m✕奥行0.8m✕高さ1mとなる、この様な大きさの鉄製の容器とはどういう物だったのか、日本におけるブリキの製缶はもう少し後だと思うのですが。
それにしても、ポンプもなかった時代、この容器24基に水を貯める作業がどれだけ、大変だったのか、想像に難しくないですね。
◎醤油
1人・1日5勺(90ml)として7斗5升を計算値として実積載は2石3斗(414リットル)とあるが、そもそも7斗5升の計算値は5勺の100人で5升、とすると7斗5升は 15日分、どういう計算なんでしょう。その計算値をもとに予備を加味して2石3斗とは、実積載があまりにもかけ離れている。実積載量で46日分。
アメリカで調達できないものが片道分でどうして足りるのか、不思議です。
◎味噌・漬物
味噌と漬物はそれぞれ6樽とある。樽の大きさは明確でないが、漬物用の樽が2斗樽と考えると、それぞれ200リットル強と考えるのが妥当でしょう。
この味噌と漬物が積載時にアメリカ側から苦情が出て物議を醸すことになるポーハタン号への積込みも同時期に進められており、そのポーハタン号のアメリカの水夫が騒ぎ出した。
日本側が積み込んだ食料に腐ったような異臭を放つものがあり、積載を拒否すると言い出したんです。
漬物はぬか漬けで両方の樽から強烈な匂いが漏れていたんです。
即座に廃棄せよとの要求に対し、3名の通訳が日本人の食事には不可欠なものであると懸命に説得し、ようやく認めさせたとあります。
咸臨丸も多分同じ状況だったろうと思われます。食文化の理解は生理的なものもあるので、難しいですね。
◎かつお節
積載量は1500本とありますが、算出基準が記されてないので定かでは無いが、150日とすると1日あたり10本。賄い人が毎日10本のかつお節を削りカンナで削るのは、結構大変なことですね。
◎焼酎
1日・1人5勺で7斗5升とあるが、これも醤油と一緒で計算方法が不明 実積載は1石5斗となっている、1日90mlとは意外と少ないですね。
冬のことだからお湯割りで飲んだのかなあ。清酒の積載の記載がない。そんな筈は無いと思うのですがねえ。
◎その他食品
砂糖7樽、お茶50斤(30Kg)、酢6斗、塩3俵、小豆2石(おおよそ300Kgくらいか?)
大豆(小豆と同じ)、その他粉ものがあって、塩引き鮭等とあって鶏30羽 アヒル20羽、豚2匹とある。
鶏や豚は生きているものであり、船上で飼われて、食料として屠殺されアメリカ人の食料となるものです。
主菜となるべきものとして野菜とだけしか記載がないが、多分日持ちのする芋類等の根菜はかなりの積載があったのではと想像する。
◎日用品としてロウソク・灯油
日用品としてロウソク1000本、1夜に5本計算、灯油7斗5升これも1夜、5箇所 これらは夜の明り採りと思われるが、日が沈めば真っ暗な船内、アメリカ人や日本の士官クラスは個室と考えるとランプとロウソクで10箇所で100人分の明かりとは少ないですね、ほとんど真っ暗ですね。
ただ火災を考えると最小限と考えたんでしょうね。
◎調理用として炭・薪、その他
炭150俵、薪1350把、調理用の燃料として必要不可欠であるが、積載時になって、もう場所がないと困っている様子が記されている。
他には水夫たちは皆、わらじ履きなので、換えのわらじが何百と所狭しと積まれて、船内、雑然とした状態だったらしい。
◎蒸気機関の燃料
石炭84000斤(50トン強)当初7昼夜分として算出したが、積めるだけ積込み 9昼夜分を積んだとある。
◎これ以上何処にも積めないほどの満載状態
咸臨丸は船体として40mそこそこ、幅8m程度、この船に100名の人間とこれだけの積載物を詰め込んで、居住スペースはおろか、通路も物にあふれ まさに立錐の余地もない状態であったようです。
◎出港準備完了
品川で、これら積載を終え準備万端整ったのが旧暦の安政7年正月12日(1860年2月)であったので、新年明け早々の事だったのですね。翌日13日に横浜に向かい、14日にキャップテン・ブルックらの荷物を積み込む予定であったが、この日が日曜日であったので、アメリカ側の都合で翌々日の15日にづれこんだとあるが、この当時日本は日曜が休みの概念がなく関係がないのですが、アメリカ人にとっては安息日でもあり、それにあわせたんでしょうね。
多分こういう不都合なことが度重なって、そのもう少し後に土曜半休、日曜休日の制度が出来てきたんだと思います。
その荷物の積込みも無事終了し、15日に浦賀に向かい、最後の荷物となる飲料水を積込み(水はここで積んだのですね)いよいよ、サンフランシスコに向け出港を待つのみとなります。
ポーハタン号の出港より3日早く、歴史上初の国家事業とでも言うべき太平洋横断に冬の大海に向けて出ていきます。
乗り組んだ者たちの高揚感はさぞかし最高潮に高まっていたんだろうと想像できますね。
旧暦の1月19日浦賀を出港 初の大海原へ 荷物も夢も満載して。
出典元
咸臨丸海を渡る 著者:土井良三 発行:㈱未來社
咸臨丸、大海をゆく 著者:橋本 進 発行:海文堂出版㈱咸臨丸 栄光と悲劇の5000日 著者:合田一道発行:北海道新聞社
浦賀からサンフランシスコに向けて出港した咸臨丸であったが、乗り込んだ人たちは最終的に木村喜毅(よしたけ)を頭に日本人94名、ジョン・マーサー・ブルック大尉と彼の部下10名、総勢105名が乗艦した。
その主だった人とは
◎木村摂津守喜毅
今回の遣米使節団の副使として咸臨丸に乗艦した訳であったが、この人、この時点で29歳、まだ20代の若者だったんですね。
出自は正にサラブレッドで7代続く旗本(徳川将軍の直臣)で生を受け、若くして老中の阿部正弘に見いだされ、先に述べた『長崎海軍伝習所』の取締に就任し、その後軍艦奉行を仰せ付けられた。
正にエリートを地でゆく人で、性格は温厚で我慢強く、人の意見をよく聞いて実行する熟慮断行型で周りの者からの信頼も厚い人物だったらしいです。
同乗した勝さんはこの時37歳、勝さんから見れば歳は8歳年下であるのに、自分より偉く、給料は自分の何倍ももらっている。この事が一番気に食わなかったらしく、事あるごとに木村さんにはイジメとも取れる嫌がらせが有ったということらしいです。
◎中浜万次郎
通訳として乗り込んだ万次郎はこの時33歳この人は土佐の国、現在の土佐清水市の漁師の家に生まれ、地元の奉公を経て、14歳の時に漁師となるべく宇佐浦の船主のところに行き働いていた。
ある時、5人で延縄漁(はえなわりょう)に出かけて、荒天に会い自航力を失って漂流してしまった。7日目に無人島に漂着、この時旧暦の正月13日、その後アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に発見されたとあるが、これが5月の9日。
なんと4ヶ月近くも無人島で生き延びていたんですね
助けてもらったのは良かったが、この時日本は鎖国政策のため、日本には帰る事は出来ずに、そのままアメリカに行かざるを得なかったんです。
万次郎は捕鯨船の名前からとってジョン・マンと呼ばれ船員から可愛がられたとあります。
まだ14歳の人懐っこい少年ですからね。頭が良くて働き者のジョン・マンは船長に気に入られ、アメリカ本国で教育させてやりたいと考え、本人もその好意に即答しホノルルで土佐の船員と別れ、単身アメリカに渡ったのです。
万次郎の人生はここですごい展開をみせるんですね。
アメリカの塾で英語、数学、習字等を習い、その上の学校にも行かせてもらい高等数学、測量術、航海術を学び、19歳の時に捕鯨船の航海士としてデビューし 大西洋、インド洋、日本の近く、またアメリカ西岸沖等を航海士としての経験を積み 日本の土佐に帰ってきたのが26歳の時。漂流してから12年の歳月が経っていた。
老中の阿部さんに召し出されて幕府の直参となり航海書の翻訳等で活躍した。
咸臨丸の計画が持ち上がった際、ブルック大尉は有能な通訳を幕府に希望していた、内心不安であったらしいが万次郎に初めて会った時の印象をこう書いている。
『万次郎は、まさに私が今までにあった人の中で、最も注目に値する人物の1人である』と
◎福沢諭吉
この人は乗船時25歳、木村摂津守の従者として乗り込む。
出自は九州の中津藩の商人の家であるが、父が大阪で中津藩大坂蔵屋敷で廻米方として米の回送・販売をしていた関係で出生地は大阪なんです。つまり咸臨丸に乗り込んだ人の中では数少ない平民なんですね。
3歳の時に中津に戻り、15歳の時、漢学者の元で漢学を勉強し、後、ペリー来航と江戸大混乱のニュースが九州まで伝わった時、兄の勧めで長崎で蘭学を学ぶことになるんです。
時代の流れを読んで転進ということなんですね。
22歳で江戸での修行を志し、大阪に立ち寄った時、兄に勧められ、大阪の蘭学者緒方洪庵の適塾に入門。二年後塾長となります。
翌年、江戸の中津藩中屋敷に開いていた蘭学塾の教師としてお呼びがかかり、この江戸屋敷で蘭学塾を引き継ぐことになります。これが後の慶應義塾となるのです。
その翌年、開港されたばかりの横浜見物に出かけ、その外人居留地で観た看板も ラベルも読めず、言葉も通じなかった事に愕然とし、万国に通じると思っていた蘭学も今や英語であると実感し、間髪入れず、英学へ転進します。
時代を読む感性、対応する実行力はやはり並外れていますね。
ただ、当時、英語塾があるはずがなく、独学で勉強するしかなかったんです。
ちょうどそんな折、遣米使節団の話や別船に木村さんが乗艦する話を耳にし合法的にアメリカに行くにはこのチャンスしか無いと考えた。
自分が知っている人で蘭学者の桂川甫周(ほしゅう)という人が木村さんと親戚関係にあると知り、この人に木村さんへの紹介を懇願したんです。
桂川さんは緒方洪庵から福沢という人物のことを聞いていたんで木村さんへの紹介状を書いて持って行かせたんです。それを持って木村さんに会い、思いの丈を伝えたところ、『よろしい、連れて行ってやろう』と快諾された。
木村さんは軍艦奉行なので当然家来もいるんですが、たどり着けるかどうかも解らぬアメリカまで行くというものがいない中で、自分から進んで行きたいというのである。
こうして福沢は木村奉行の従者の1人として加えられた。
歳も福沢が4歳下なのでちょうど良かったのでしょう。
この時から木村と福沢の親交が始まり、生涯を通じて続き、お互いに敬愛と友情の念を抱いていたと言われています。
◎前途多難な出港
浦賀を出港して間もなく猛烈な荒天に遭遇するんです。
低気圧の通過と季節風の吹き出しによる大西風で海上は大時化の状態東を目指す帆船にとっては順風ではあるが、こんな荒海を初めて経験する日本人の乗組員にとっては、いきなりの船酔いで戦意喪失、先が思いやられる航海の始まりだったのです。
まだ湾の中だったのですから大自然の先制パンチですね
『午後三時、浦賀出港 湾の中で西南西の強い風に乗る、艦長は下痢を起こし、提督は船に酔っている。
翌日、明け方目を覚ました、船は激しく縦揺れしている、デッキに出てみると二段縮帆したメインマストのトップスルが裂けている。その帆をたたむ。フォアスルも半分破れている、それもたたむ、スパンカーを絞ったが裂けて流れてしまった。
非常に荒い海でしばしば波が打ち込む、日本人は全員船酔いだ』セールが3枚も破れるほどの強い風だったのですね。
ブルックさんは日本人全員船酔いと書いていますが、これは誇張ではなく酔っていなかったのは万次郎と小野友五郎と他数名でとてもセールをたたむとか。帆を操作する船上の作業ができる状態では無かったらしいです。
ブルックさんらアメリカの船員が乗っていなかったらと思うとゾッとする話ですね。
ブルックさんの日記は続きます。
『午後四時、北東に転舵する、水温から観て黒潮に乗った思われる。十二時から四時までの間に水温は55°Fから62°Fに上がった。流れに乗ったのなら良いのだがそうなれば北ないし東に向け速度も加わるだろう。
提督はまだ自室にいる、艦長も同様。天候は良いのだが風は真向かいだ、午後七時、風が西向きになることを切に望んではいるが、まあ、これくらいで満足としよう。
私は夕方、お茶に時間に、お茶というよりご飯とイカを食べた』さすがプロの船乗り、ブルックさん余裕ですね。
船が大揺れに揺れている時でも、水温を測り状況を確認しています。
日記に出てくる提督は木村さん、艦長は勝さん リーダー二人ともダウンで部屋から出てこられないこれで、サンフランシスコまでとは、先が思いやられます。
きっと、吐き下しながら、心の底から『ブルック大尉らを乗艦させた我々の判断は正しかったのだ』と思っていたんでしょうね。
出典元
咸臨丸海を渡る 著者:土井良三 発行:㈱未來社
咸臨丸、大海をゆく 著者:橋本 進 発行:海文堂出版㈱咸臨丸 栄光と悲劇の5000日 著者:合田一道 発行:北海道新聞社
◎ 嵐の真っ只中
旧暦の安政7年1月19日(西暦1860年2月10日)に浦賀を出港して、いきなり大時化の中に突っ込んだ咸臨丸ですが、太平洋のどういう航路をとったのか。
投稿 米川
ブルックさんはサンフランシスコまでの最短航路をとりました。最短とは房総半島の先端の野島崎とサンフランシスコと地球の中心の3点で形成される平面が地球表面と交わる線に沿って進む航路で、一般的な世界地図でみると右図のような往路は北側に弓状になった航路になります。(大圏航路という)
出港後、嵐の先制パンチを受けた咸臨丸ですがサンフランシスコまで36日間の航海のうち、晴れた日は5日しかなかったとされているので、その殆どは不安な航海が続くことになるのです。
日本人乗組員の日誌から読み取ると咸臨丸は波に揉まれ、左右の激しいローリングが繰り返され27,8度も傾いた波の高さは12〜15メートル位ある。
大きく傾きながらも天まで昇っていくような勢いで打ち上げられ、次の瞬間には奈落の底に突き落とされるような状態で まるで遊園地の恐怖体験の乗り物にでも乗ったような状況が続き、多分その度に船底から物凄い波の当たる音が響き、船が壊れるのではないかというようなキシミ音が皆の恐怖心を煽り、生きた心地もしなかったのではと思いますね。
甲板には激しく波が打ち込み、一瞬、1メートルにならんとする水かさになる、そんな水が窓から怒涛のごとく船室に入ってくる。
明り採りの窓には水が入らないように工夫はされてはいるんですが、その効果もなく、容赦なく滝のように水が流れ込んでくる。
居住空間であるはずのところが部屋中水浸し、衣類も荷物もたまったものではない。
甲板上は歩くのもままならず、物にしがみついて移動するのがやっと。食事の賄いなんぞ、できるわけもなく、皆床に臥せていたとあります。日本人の殆どの乗組員は海軍伝習所の出身なので訓練を受けたものばかりでしたが、沿岸航海のみで、こんな荒天時の訓練は経験が無かったのです。
冬場の太平洋の厳しさを思い知らされ、船酔いと恐怖心で食べるものも食べず体力も消耗し、うろたえるばかりで規律も何もあったものではない状況だったのではと想像できますね。
甲板に出て作業できるのは中浜、小野、浜口(教授方)の3人位で帆の操作は全てアメリカ人が行ったのです。アメリカ人のその殆どはフィルモア・クーパー号の乗組員で経験豊かで彼らは暴風雨の中、誰一人恐れおののく者はおらず、平然と作業をこなしている。
船の揺れだけでなく、考えれば一年で一番寒い、寒の時期、しかも当時は今よりも冬の寒さは厳しかったと言われている。
まして航路は緯度にして東北、北海道辺りみぞれ混じりの雨、水浸しの中で暖を取る物は何もなく、おそらく恐怖と寒さで震えが止まらず、唇は紫色に、手足は寒さで感覚は麻痺し、濡れた着物はどうにもならず、只々、念仏を唱え、過ぎ去ってくれるのをひたすら願っている状態だったのでしょうね。
それにしても、暴風雨の中、何を着て、何を履いていたんでしょう。
当時、紙や布に油を塗布したもので作った合羽というものはあったらしく(番傘の紙みたいなものでしょうか)多分、外ではこれらを着ていたと思われるが、足元はどうだったのでしょう。
やっぱり草鞋(わらじ)しか無かったのではと思いますが、足袋を履いていたとしてもずぶ濡れ、どれだけ冷たかったのではと同情してしまいます。
◎ 勝艦長 倒れたまま
艦長の勝さんは出港して間もなく倒れたが、自身の日誌によると、出港前から風邪を引き、準備で養生どころでなく、こじらせて胃腸炎を発症し、そんな状態で出港とあります。
そこへ船酔いが追いを打ち最悪の状態となり、ブルックさんから構わず休めと言われたので部屋で横になったが発熱ひどく、胸が詰まって体が動かず吐きそうで吐けない、出港して2日2晩飲まず食わず、船の揺れ激しく、生まれてこの方こんな苦しみは初めてだと、流石の勝さんも、青息吐息。
他の者も皆、倒れており誰一人、部屋を訪ねてくれる者はいないと、もう悲壮感が漂っていますね。
その後、中浜万次郎が足を運んでくれ、粥と薬を与えられ、多少快方に向かったが食欲は無し、気力も無し、人間社会に関わる意欲も絶えて無いと最悪の落ち込みよう。
この状態が2月の半ばまで続いていたというから、往路37日間の航海中3分の2は完全に病人だったのです。航海中、甲板に出てきたのは3日だけであったという人もいるくらい。
筆者の知識としては『勝海舟が咸臨丸を指揮し、日本人の手で初めて太平洋を渡りサンフランシスコまで行った』というもので、偉大なる勝海舟の人物像が出来ていたんですが、真実はこういう事であったということですね。
◎ 豚肉を食す
正月26日、低気圧の圏外に出て海はようやく収まり天気も回復した。出港以来初めての快晴、(1日だけだったのですが)濡れた衣服を甲板狭しと吊り下げ乾かした。
提督の木村さんも久しぶりに甲板に姿を見せた、船室に閉じこもったままだったので憔悴の色が見えたが・・・
この日は木村さんより船中に豚肉が配られたらしい 木村さんの従者である長尾さんの日誌に『今晩アドミラール(提督)より船中に豚を賜る、余、同床七人にも一片を賜る味、春宵の価二万倍』と記している。
ことわざに『春宵一刻価千金』(しゅんしょういっこくあたいせんきん)というのがあり、春の宵は趣深く、その一時の時間は千金にも価するという意味であるが、それをもじって春宵の価二万倍と書いているんです。
余程嬉しかったのでしょう、同室の福沢らと分けて、久しぶりの酒でも酌み交わしながら話もはずんだことでしょう。
多分、木村さんは皆の苦労を受け止め、ブルックさんにお願いして豚を分け与えたんでしょうね。もともと豚などの生き物はアメリカ人の食用として甲板に飼われていたものなのでしょうから。
ブルックさんの日誌にも『今日、豚を一頭屠った(ほふった)日本人水夫たちは非常に面白がった、ちょっとしたことが彼らを大いに喜ばせる』と記しています
木村さんも、ブルックさんも優しい人ですね。
で、その肉をどう調理して食べたのかチョット気になるところですが、多分七輪で炭火で焼いて醤油で味付けして食べたんでしょうね。
七輪から、もうもうと上がる煙も食欲を誘ったことでしょう。
他の者の日誌にも『アメリカ人はその油を取って油揚げして食せしむ、其美味なり』となっていて、唐揚げのようなものを作って食べたと思われるが、その当時、日本には油で物を炒めるとか、揚げるとか云う調理法は一般的でなかったと思われるので、日本人として初めて豚肉の唐揚げを食べたのではと推測します。
ただ、この至福の時間は次に来る嵐の前の静けさだったんです。
皆がはしゃいでいるときも、ブルックさん、海の状況を読んでいたんですね。
出港以来吹き続けていた西風が一斉に止み、南から軽風が吹いている、気圧は依然と高い、これを温帯低気圧を発生させる原因と読んだ。
海の状況で航路を南側に進まざるを得ない時があるので、なるべく最短距離の大圏航路に沿って進めようとすると、できるだけ高緯度をとろうと、北に向けた。
ブルックさんの読みは当たった。
出典元咸臨丸海を渡る 著者:土井良三 発行:㈱未來社咸臨丸、大海をゆく 著者:橋本 進 発行:海文堂出版㈱『咸臨丸難航図』を描いた幕府海軍士官 著者:粟宮 一樹 発行:㈱文芸社拙者は食えん! サムライ洋食事始 著者:熊田 忠雄 発行:㈱新潮社週刊マンガ日本史34 勝海舟 咸臨丸、太平洋を渡る 著者:安彦 良和 発行:朝日新聞出版
◎小野友五郎の活躍
旧暦正月二十七日、そう、皆で豚肉を食べて楽しんだ翌日である、どうやら温帯低気圧に入った様子。
一転して荒々しい海に変わり、強い風が南南東から吹いてる。
投稿 米川
夜が更けるにつれて風は強まり、激しくスコールが来る、帆をたたむタイミングを逸してしまった様子。
ブルックさんの日誌の一文『たたもうとすれば必ず吹き飛ばされるに決まってる』何度もセールがヤードから引きちぎれるのではないかと思ったとある。
今回ばかりはブルックさんをして船が転覆するのではと思ったほどだという。
滝のような雨に打たれながら暗闇の中を疾走する咸臨丸の甲板に立ち尽くしたブルックさん。
そんな中でも、太陽が出ている間は、揺れをものともせず、高度を測り、船の位置を割り出していたのは小野友五郎。
夜になってもずっと甲板で、ずぶ濡れになりながらもブルックさんの片腕として動き回っていたようですね。
ブルックさんは小野さんを大層気に入っており、出港前からその測量技術の非凡なところを見抜いており、こんな男が日本に居たのかと云う驚きを日誌にも書いており、自分の知識は何でも教えてやろうとしていたみたいです。
◎そのころポーハタン号では
そんな嵐の中、近くを航行中の遣米使節団を乗せたポーハタン号も同じ状況で、副使の村垣さんの日誌には『ポーハタンの揺れは猛烈で人も物も転げ回っている。
その中で森田清行は便所に戸を開けようとして転び誰か酔倒れている人の吐いたタライの上に手をつき、それを拭くことも出来ず、床にも戻れずに、正史の新見豊前守(ぶぜんのかみ)の寝床へ転げ込んだ。後で笑い話になったが、その時は誰 とがめる人もなく、唯動揺の音のみであった』と書いていて、村垣さん自身も寝床にあったが、手足を踏ん張っていないと身体は盆の上の桃のように転げ回る始末であったと記している。
“盆の上の桃” うまい言い方ですねえ。ところで森田さんは用を足せたのかどうか、気になるところではあります。
ポーハタン号の排水量は3765トンで咸臨丸625トンの実に6倍、こんな大きな船でもこの揺れ、いかに咸臨丸の揺れがひどかったか想像がつきますねえ。
ポーハタンのタットナル提督は揺れのひどくなった頃から日本の正使たちを見舞いいろいろと親切に気を使ってはくれるが、彼自身もこんなひどい時化はおそらく海軍に入って以来だろうと言っている。
ポーハタン号の日本の正使たちは、いわばお客さん、咸臨丸の日本人は咸臨丸を操縦して航行させるのが仕事、立場が違う。
逆にブルックさんらはお客さんであった筈、それが一部の者を除いて、ほとんど役立たず、未曾有の危機だと云うのに船室にはいったまま。
そういう状況にブルックさん怒りにも近い不満が噴出するんです。
船酔いからも慣れて動けるようになって来ている筈なのに、動こうとしない。
士官は悪天候に対してまるで無知。水夫は風を観て舵をとることが出来ない。
船の中で秩序とか規律とかいうものは全く観られない。
水夫たちは船室で火鉢と熱いお茶とキセルとをそばに置かねば満足しない。
飲酒は厳しく取り締まられていない。 もう憤懣やるかた無い様子です。一番困るのは士官からの命令は全てオランダ語で下され、しかも僅かの水夫たちしかその言葉を解しない。
一体どこから手を付けて良いかわからない程、滅茶苦茶であると嘆いています。
ブルックさんは彼らを教育した長崎海軍伝習所のオランダ教師が悪いのだと言いたいのだが、あの時、伝習所の教師団長カッテンディーケさんもホトホト手を焼いていた事を、思い出しますね。
◎船の指揮権を渡しなさい
ブルックさんの嘆きの最大は、船を操作しているのは自分であるにも関わらず、艦長でもなく、指揮権が全く無いので日本人の水夫たちを動かせない。
提督の木村さんも、艦長の勝さんも部屋に入ったまま。
そういう事を一番理解しているのは中浜万次郎だけである。
ただ、この人の立場は微妙で、英語が達者なだけに他の日本人にはアメリカ人との会話の内容がわからない、と言うことは、アメリカ人側に立って物を言っているという風にとられてしまいがちで、日本人から疑心暗鬼の眼で観られてしまう。
アメリカで教育を受けたという事がどうも、引っかかっているようで事実、ペリー提督来航の時に、当初、通訳に起用する案が上がったが、アメリカに有利な通訳をされるのではとの事で、外されているんですね。
ブルックさんの指示で水夫たちに万次郎から命令を出した時、水夫たちは反抗して逆に万次郎をヤードに吊るすぞと脅したことがあったらしく、水夫たちにすれば『元を正せばタダの漁師の小セガレが、何を士官ヅラしてモノを言うとるのか、わしらに命令するつもりか』とカンカンです、相当頭に来たんですね。
ブルックさんはそれらを見聞きして、万次郎に同情しながらも一番いい方法を探ろうとしています。
2月に入ったある日、ブルックさんは自分の部下に命じ、日本の士官たちに上手廻しの技術(逆風に対する航法)を教えようと申し出たが、皆、種々の言い訳をして甲板に出てこない。 そこでブルックさん、それならばと部下に部屋に戻って何もするなと言い放って、勝艦長に直談判。
もし士官が協力しないなら、自分はこの船の面倒は一切観ないと迫ったんです。
勝さん、流石に困って、士官たちを説き伏せて、彼らをブルックさんの配下につけ曲がりなりにも治まったが、勝さんにしてみれば、病とはいえ、再三の危機にも指揮をとれず、その指揮権すら異国人に渡せばならず、屈辱以外のなにものでも無い。
こんな事ならいっそ死んだほうがマシだと書いているんですね。
もう最悪の精神状態ですね。それに木村さんへの恨みつらみも満載。
◎勝の不平不満
度々の騒ぎでも、木村奉行は安眠して、我、関せずで済ましている。
一番腹の虫が収まらないのは、待遇の差。
軍艦奉行の木村さん、幕府の海軍最高責任者として年収は2000石、一方の勝さんは200俵で80石、実に25倍。現代の貨幣価値にして80石で約100万円くらいだとも言われているので、年収100万円と2500万円の違いといえば、解りやすいですかね。
それだけでなく、今回の航海に対する手当、つまり出張手当ですね。日当✕日数で 木村さん473両、勝さん146両、3倍以上の手当を貰いながら、何をしたと言うのかと怒りが収まらない。でもそれを言うとブーメランになる・ ・ ・ ですね。
そんな時、勝さんの『バッティーラ事件』が起きた。
◎バッティーラ事件
不平不満の八つ当たりの度が過ぎて、ついに勝さん太平洋のど真ん中で『ボートを降ろせ、俺は国に帰る!』と騒ぎ出した、誰から観てもただの駄々っ子木村さんも、福沢さんも観ている。
後に二人から、勝艦長が部屋から出てこないのは酔いや病気ではなく、不平不満でふて寝を決め込んでいただけとまで言わせてしまっている。
ブルックさんも日誌の中で『バッティーラ事件の発端が何であれ、いやしくも一艦を統率する立場にある勝が口にする言葉ではない』とこういう放漫無礼な態度にたいして福沢さんは同じ苦楽をともにした経験があるにも関わらず、生涯、勝を友とする事は無かったと言われています。
こんな日々が続く中、水夫たちも、船酔いで気力、体力もい萎えてしまい『アメリカへ行くのは嫌だ、このまま帰りたい』という者も出てくる始末、まるでコロンブスのサンタ・マリア号での騒ぎと同じ。
不安と緊張の極限状態、出向前の夢や希望や高揚感もどこかへ行ってしまい最低限の人としての尊厳を守るのがやっとの状態。それすら崩壊しそうな咸臨丸。
各人の葛藤渦巻く重苦しい空気を乗せて、それでも一路アメリカへ。
出典元
咸臨丸海を渡る 著者:土井良三 発行:㈱未來社
咸臨丸、大海をゆく 著者:橋本 進 発行:海文堂出版㈱
咸臨丸 栄光と悲劇の5000日 著者:合田一道 発行:北海道新聞社
◎日付変更線も通過して
安政7年2月4日、経度180度の日付変更線を通過して、西経に入った。西側から変更線を越える移動をすると、1日マイナスとなり、翌日も4日にしなくてはならないが、日誌の日付はそのまま数えているため、以後の日誌の日付は1日進んだままとなっている。
投稿 米川
大嵐の中をかいくぐり、生涯経験することのない修羅場のような航海を体験してしまうと、咸臨丸は絶対に沈まないという確信が出来、全行程の半ばを過ぎたという安心感も生まれてきた。
元々、ポーハタンの伴走であった筈であるが、ポーハタン号の姿は見ることもなく水平線の果てまで咸臨丸以外は何も存在しないという世界が続く。
それでも、ある日は香港からサンフランシスコに向かうフローラ号という咸臨丸の倍ほどもある商船に出くわし、暫く並走し、ブルックさんとフローラ号の船長が互いにメガホンでやり取り会話を交わす、香港から中国人を300人輸送しているらしい互いに励ましあって分かれる。
アホウドリが咸臨丸を訪れてきて乗組員と楽しんだり、ある日は数多くのクジラが船の前をむれて、航海の邪魔をしたりと、いくつかの変化を楽しみながら進んだ。
◎ 飲料水事件
この先、航路をハワイに寄港するか、サンフランシスコへ直行するか判断する時期にかかった。
つまり、燃料の石炭と飲料水の残量に関わることになるのですが、その両方とも節約してきたこともあり、水は水桶を調べた結果、10基のタンクは使い果たしたが、まだ13基のタンクは未使用であり、また石炭もまだ余裕があるとの判断でハワイに寄らず、直行することになった。
(一方のポーハタン号は荒天時に外車を廻していたこともあり、ハワイに寄って石炭を補充している)ただ、そうは言っても、水の無駄遣いは厳禁で、無くなると皆の命に関わる事なので飲み水以外の水の使用はまかりならぬというお達しが出された。
ところがある日、アメリカの水兵がこの貴重な水を使って、自分の下着を洗濯していたんです。
それを見つけた吉岡勇平という人がいきなり、その水平の顔を足蹴にしたんです。
顔を蹴られた水兵は、何かわめきながら、仲間を呼びに行って、連れてきたかと思うと、吉岡に向かってピストルを構え、対する吉岡さんも刀の柄を握って、まさかの一触即発の騒ぎになったんです。
何事が始まったのかと日本の士官たち、勝さん万次郎さん、ブルックさんもびっくりしてやって来たんです。
事の次第を聴いたブルックさん、ガヤガヤと騒ぐ自分の部下を制して、静かに日本側に向かって『よろしい、斬ってください』と言ったということなんです。
共同生活の掟を破った者に対して、当然の処刑を求めたと言うことなんですが多分、ブルックさんも吉岡さんの人柄を見た上での言葉だったんでしょうね。
この一件は、勝さんとブルックさんの握手となって収まったということらしいですがそれ以来、日本人のブルックさんを観る目が変わったとあります。
当時の日本人に流れる武士道精神に通ずるものがあり、日本人を感激させ、福沢諭吉の日誌にも、大いに人を感激せしめたと書かれています。
かなりリアルな表現で書かれている事件ですが、アメリカの水兵はいつも自分の周りにピストルを所持していたという事になり、そんな荒くれの男たちにピストルを持たせていたのかという疑問と、吉岡さんが刀の柄に手をかけたというのは、これも船の上でも脇差を差していたのかという疑問が残りますが、どうなんでしょうね。
◎ いよいよ、サンフランシスコ近し
2月の17日と19日に咸臨丸はハリケーンに遭遇しているんですが、もう少々の時化には慣れていて、慌てた様子はないが、またもや船の中は水浸しなんです。
衣服も居間も濡れて乾かない、外は吹雪。相変わらずの劣悪の環境で水夫達は次々に病気にかかり、苦しんでいる。士官たちは彼らを激励するため薬酒を造り飲ませたり、時にはご褒美と称してお金を与えたりと、心を砕いている。
2月23日、 小野友五郎がマストに貼り紙をしてサンフランシスコが目前である事を全員に知らせた。
もうすぐアメリカに着くという喜びに船中が沸き立った。
25日にブルックさんと小野さんとの間で、いつサンフランシスコの山が見えるかという論争と言うか、賭けみたいなことをしているんです。
ブルックさんは明日26日の朝必ずサンフランシスコの山を見ることが出来ると言ったが、小野さんは明日の午後でないと無理ですと主張した。
こういう和やかな賭けが出来る雰囲気が船中に溢れていたんですね。
結果は、ブルックさんが勝って、26日の朝、アメリカ大陸の山が見えたんです。
小野さん負けたと言っても、彼の計測でわずか半日の誤差、思えば大した測量技術ですよね。
◎ 掲げる旗でまたまたトラブル
いよいよ入港の準備、サンフランシスコ入港に際し、掲げるべき旗について論議となる。
ひとつは国の識別、これは日米和親条約の時から船舶の国際的な識別として日の丸を使うことが決められていたので、日章旗には異論はなし。
メーンマストには幕府水軍の中黒長旗、これも異論なし問題はもう一つの、この船に座乗している最高位者の旗、つまり軍艦奉行の旗を掲げるべきなのだが、まだその時点で軍艦奉行の旗は制定されてない。
代わりに木村奉行の家紋である『丸に松皮菱』の旗を掲げようと言うことになりブルックさんも賛同して、一旦決まりかけたが、それにイチャモンがついた。
その主は勝艦長。 こういう時になると登場してきますね木村さんに関わることはことごとく気に入らないらしい。
勝さんの言い分は、徳川将軍の紋所である三葉の徳川葵の紋の旗を掲げるべきとの主張木村奉行これには猛反発徳川葵の旗を掲げるとは将軍に対する僭上の沙汰(身分をわきまえず差し出た行為)であると、これは譲れないと主張 勝は勝で幕府の軍艦に木村の家紋を掲げるとはそれこそ不敬だと反論した。
乗ってもいない将軍の旗を揚げるのは、それこそ筋違いだとの結論になり松皮菱の旗を揚げることになった。
勝さん、結局、自分の意見は聞き入られなかったと腹を立てている。
事あるごとに木村さんに対する嫌がらせをしているんですね。
◎ サンフランシスコ湾に入港
2月25日の夜に入港の準備は完了していた。 煙突を伸ばすためメーンスルを取り外しトップスルを二段縮帆し、プロペラを降ろし、連結した。
26日は連日の陰気な雨もあがり、晴れ渡っていた。
午前8時から汽走に入った。
午前6時、目指すアメリカ大陸の山々が現れ、左の方には5つほどの島が見えその上に在る灯台さえ肉眼で見える様になり、昨日まで眉にシワを寄せて不安に襲われていた水夫たちも晴れやかな悦びの色を面に浮かべて、小踊りせんばかりに喜び、今か今かとまだ見ぬ国に着くときを待ち兼ねているという有様であった。
と日誌にある。
その様子が目に浮かぶようですね。
午前10時になって、水先案内船という船が近寄り、二人の水先案内人を乗船させて船は金門湾に入ってきた(現在のゴールデンブリッジの架かるところ)左手にはレンガで築いたまるで城のような砲台が見え、湾内の中央にある小島の砲台には星条旗が翻っている。
浦賀を出港して38日目、太平洋4千海里の荒波を命がけで越えてきた咸臨丸。
日章旗、中黒長旗、それに松皮菱の旗をたなびかせて今、波静かな金門湾を粛々と進む。
乗組員一同、それぞれの胸中には溢れんばかりの感慨と歴史上初の国家事業に今、自分が関わっているという最高の瞬間を味わいながら甲板に立ち尽くして目の前の風景を観ていたのでしょうね。
夢と憧れのサンフランシスコ さあ、いよいよ上陸だ!
出典元
咸臨丸海を渡る 著者:土井良三 発行:㈱未來社
咸臨丸、大海をゆく 著者:橋本 進 発行:海文堂出版㈱
咸臨丸 栄光と悲劇の5000日 著者:合田一道 発行:北海道新聞社
◎ サンフランシスコ市揚げての大歓迎
咸臨丸はサンフランシスコ湾内のレレヨマチという海岸に午後1時投錨した。
早速ブルックさんと数名が着船と入国の手続きに役所に出向いた。
翌日、港の岸壁は見物人でごった返していた。日本の軍艦がやってきたのは開港以来というのでひと目日本の軍艦や日本人を見たい人でまるで蟻のように集まってきた。
投稿 米川
前日の届けを受けて、今度は市長が12人の区長を伴って訪ねてきた。
市長は来航を歓迎し、木村摂津守に対しホテルを用意したので上陸して休憩するようにと勧めてくれた。
まず、木村さん、勝さん、ブルックさんそれに教授方を連れて上陸した。
岸壁には既に何台もの馬車が用意されていた。2頭立ての馬車を観るのは初めてだった。
立派な造りの乗り物に気をとられながら、それぞれに分乗し街へ出かけた。
街中では道路沿いに両側、大勢の人が押しかけ、祭りのような賑わいだったという。
やがて馬車は4階建てのレンガ造りのインターナショナル・ホテルに着いた。
案内されて、その建物、調度品に肝をつぶしたが、一番驚いたのは、市長や区長たちと共に現れた美しく着飾った女性たち。芸者風には見えないので木村さんは恐る恐る尋ねると、いずれも市長や区長さんたちの奥様方で『貴賓を迎えるために来たのです』との事、はじめて西洋と東洋の思想の違いにふれて、息をのんだという。
その日は市内の観光と、ディナーが用意され、帰りはわざわざ咸臨丸まで市長さん、区長さんが送ってくれた。
正式に招待された咸臨丸なら理解できるが、市長さんらはポーハタン号のことは連絡を受けていたが咸臨丸は役所への届けで、初めて知ったという。
木村さんも勝さんも、この歓迎ぶりに少々困惑しているようですね。
“なんでここまで”と。
福沢諭吉は自身の自伝のなかでこのように書いている『さあどうも、あっちの人の歓迎というものは、それはそれは実にいたれりつくせり、この上のしょうが無いと言うほどの歓迎。
アメリカ人の身になってみれば、アメリカ人が日本に来て初めて国を開いたというその日本人が、ペルリの日本行きより8年目に自分の国に航海して来たという訳であるから、丁度自分の学校から出た生徒が実業について自分と同じことをすると同様、オレがその端緒を開いたと言わぬばかりの心地であったに違いない。
ソコでもう日本人を掌(てのひら)の上に乗せて、不自由をさせぬように、不自由をさせぬようにとばかり、サンフランシスコに上陸するや否や、馬車をもって迎えに来て、とりあえず市中のホテルに休息というそのホテルには、市中の役人か何かは知りませぬが市中の重立った人が雲霞(うんか)のごとく出掛けて来た・・・』と続く
教育者らしい見方というか、“どうしてそこまで”の答えを探っている様子なんですね。
◎ 新聞社が押しかける
咸臨丸の日本人は観るもの全てが興味津々なのであるが、アメリカ人だって日本人を観る目は同じこと。
新聞社が放おって置くわけがなく、各社、咸臨丸に押しかけ連日、1面に特集記事が組まれるほど。
日本のサムライは何を着て、何を履いて、何を付けて、髪型はどうだとか、とにかく頭のテッペンから足の爪先まで舐め回すように観て、読者の好奇心を煽り立てる
特に最高位の木村摂津守に関しては白い足袋、草履、羽織、袴の生地、色彩、それを結ぶ紐が銀色の太い紐であったこと、その腰には大小の刀を帯びていたと、その刀の鍔、下げている印籠、根付、いずれも第一級の工芸品との見立て。
翌日の新聞には木村摂津守を評して『アダムラール(木村のこと)は頭上より足の指先に至るまで貴人の相貌(そうぼう)あり』と記されている。
当然、ブルックさんも記者から質問攻めに合い、インタビューに答えているがブルックさん、日本人の乗組員の悪口は一切言わないばかりか、航海技術に精通していると褒めちぎっているんです
木村さんは航海中は最初からブルックさんに対して感謝と尊敬の念を持ち続けており、一方ブルックさんは、当初は航海のことは何も知らない役人との観方をしていたが、途中からは木村さんの人間性に触れ、彼もまた木村さんを敬愛する仲になったと言われている。
この後、ブルックさんとの別れの際、木村さんは咸臨丸に積んであった千両箱をあけ、感謝の印としてどうか好きなだけ持って行って頂きたいとブルックさんに申し出たが、ブルックさん『私はあなた方のお手伝いをして日本と日本人をアメリカとアメリカ人に初めて紹介した名誉で充分です』とこれには応じず1両たりとも、手にしなかったとあります。
ブルック提督、生き様が素晴らしいとしか言いようがない。
◎ サンフランシスコ市 正式歓迎会
旧暦の3月2日、サンフランシスコ市より正式歓迎会の申し入れがあった。式典は支庁にて。
当時のサンフランシスコには迎賓館なるものがなく急ごしらえで支庁内部に式典会場を設えたようです。
支庁では17発の祝砲で迎えられ、その祝砲で周りの建物の窓ガラスが皆割れるという、一幕もあったようで、先日に引き続き大変な歓迎ぶり。
会場のひな壇には市長を挟んで木村さん、勝さんが座り、場内のすべての人と握手で親交を深めた。
ここでも、日本人の絹の着物と日本刀に好奇心を持たれた様子。
式典の後、ジョブホテルに会場を移し、饗宴がなされた。
市長から乾杯があり『日本の皇帝とアメリカ大統領の健康のために』の言葉で一同乾杯。
その後、木村さんから万次郎に通訳してもらい『今、日本の皇帝のために乾杯をしていただいたが、その名前が大統領の前にあった、今度は大統領の名前を先に、アメリカ大統領と日本の皇帝のために乾杯して頂きたい』と再度、乾杯をお願いした。
会場は大歓声となり、和やかに乾杯が行われた。
この木村さんの機転、外交センスは一流のもの人として、相当優秀な人物だったんですね。
◎観るもの全て、驚嘆!
上陸してから、市内の様子、歓迎会の会場等今まで観たことも無いようなものばかり、あまりの違いに、まるで竜宮城に行ったようだと形容する者までいたという。
彼らを驚かせたのは、街の様子で道の真中は馬車が勢いよく往来し、歩行者には歩道が設けられており、整然としている。
建物の窓にはガラスが嵌められている(当時の日本は障子が一般的)
床には絨毯が敷かれ、そこを靴のまま歩いているエントランスに入るとピアノなる楽器の演奏で出迎えてくれた。(多分、観たこともない楽器だったのでしょう)
部屋の明かりは光り輝き照らしている(当時でも市内はガスが供給され外灯や部屋の明かりはガス燈だったのです)宴会場にはシャンデリアなるものが吊り下げられ金色の金具で飾られ、7,8灯のガス灯がまばゆいばかりに輝いている。
(日本のあんどん、ローソクの灯りとは桁違いに明るく見えたんでしょうね)
『水道』
ホテルで蛇口をひねると、水が勢いよくほとばしり出てびっくりしている日本では井戸からくみ桶で汲み上げなければならないが、ひねるだけでジャーと出てくる、何という進歩した世の中だとびっくり ただ、当時はまだ、電気は供給しておらず、当然電動ポンプも無いので、どういう浄水システムで濾過し、配水方法やビルの高所に揚水するシステムはどうしていたのか、興味は尽きないですね。
夢にまで観たサンフランシスコはまさに夢のような社会、サムライ達は貪欲に見聞きし、脳裏に叩き込んで、新しい日本のために生かさねばと、それぞれの胸の内に、新しい日本の夢を重ねて描いていたんでしょう。
出典元
咸臨丸海を渡る 著者:土井良三 発行:㈱未來社
咸臨丸、大海をゆく 著者:橋本 進 発行:海文堂出版㈱
咸臨丸 栄光と悲劇の5000日 著者:合田一道 発行:北海道新聞社
咸臨丸難航図を描いた幕府海軍士官 著者:粟宮一樹 発行:㈱文芸社
拙者は食えん!サムライ洋食事始め 著者:熊田忠雄 発行:㈱新潮社
◎ブルックさん奔走する
咸臨丸の日本人は行く先々で歓迎歓待を受けて、サフランシスコ市の時の人となり、晴れ晴れしい毎日であったが、そんな中、舞台裏で動いていたブルックさんの姿があった。
それは、航海中も乗組員に話していた咸臨丸の修理、改造について。
投稿 米川
激しい嵐の中を航行して来たため傷みもひどくなり、特に滑車類、ヤードやブーム、救命ボート等の修理や新調をせねばならない事。
それにプロペラが完全に上昇せず水の中に入ったままなので、船体を振動させて、速力を落していること。
入港時にプロペラを下げてシャフトと接続したと記述されていたので、上昇はするが、途中でひっかかり、水面より上には上がらなかったと思われますね。
それに、ブルックさんの見立てでは、ヤードに対しセールの大きさが小さすぎるので大きなものに新調すべきであることや、他にも多くの改善すべき事があるという。
ブルックさんにとっては自身はここで船を降り、復路は日本人だけで帰るので関係がないと言えば、そうなのですが、そこは放おっとけ無い性格、何事もなく日本まで帰れるようにと奔走してくれるんですね。
まず、サンフランシスコの海軍長官であるカニンガム氏宛に、入港の報告と、自分は日本政府とポーハタンのタットナル司令官の命令をうけて咸臨丸の航行を支援してきたこと。またこの船には木村という日本の海軍長官が乗艦され、帰航の事を考え、修理を要望されている事、できれば太平洋の台風を避けるため、早期にお願いしたいと云う旨を文章で依頼しているんですね。
そうすると、翌日にカニンガム長官から快諾の返事がよこされて『本官の指揮下にある造船所はあらゆる方法で木村長官の便宜を図る事に喜びを感じている・・・・
ご都合の良い時期に咸臨丸をドックに入れられたい』と。
ブルックさんの行動の俊敏さと人脈の太さに感心するところです。修理はサンフランシスコ湾内の北側に位置するメア・アイランド海軍造船所で行い、広い敷地内にドックはじめ製作工場設計事務所、武器、食料品等の保管庫官舎等が配置された大きな造船所です。
このカニンガム長官は船を修理している間の日本人の宿泊施設として敷地内の自分の住居の隣の官舎を充てがってくれたり、士官たちを自宅に呼んで歓待してくれるなど、いたれりつくせりのお世話してくれるんです。
それからもうひとり、ブルックさんの紹介で貿易商を営むブルックスさん(Brooks)という人で、この人も咸臨丸がサンフランシスコを離れる間際まで親身になって世話してくれた人なんです。
ここでは、詳しくは触れませんが、咸臨丸の過酷な状況での航海でサンフランシスコ到着後、3名の水夫が病院に入院するも、亡くなっているんですね。
これらの人のお墓を立ててくれたのも、このブルックスさんという方なんです。
この人は後年、サンフランシスコ初の日本領事として活躍された人らしいです。
これらの人のおかげで、3月4日咸臨丸の修理が始まったのです。
◎ 浮きドックにびっくり
3月4日の朝9時に咸臨丸を浮きドックと呼ばれる施設内に導き、所定の位置でドックの両側に固定、次に蒸気機関を使って浮きドックの底部に設置された多くの箱状のタンクの中の水を排水させる作業が始まった。
するとタンク内は排水された水の分だけ、空気が入りタンクに浮力が生じて浮き上がってくるという仕掛け。それが幾つも連なっているので船を持ち上げるというもの。
観ていると大きな咸臨丸が水面から徐々に上がってくるではないか。
一同、目を丸くして観ていたのか、息を呑んで観ていたのか、いずれにしても 今、自分の目の前で繰り広げられている光景を信じることが出来なかったのでは無いでしょうか。
喫水線が上昇し、やがて船尾の舵が水面から顔を出し、丸裸になった船底が見えてきた所定の位置まで上昇したのが、昼過ぎであったという。
ここでも、技術力の差を見せつけられた思いですね。
姿を現した咸臨丸の船体は思ったほどの損傷はなく、一同ホッとし一安心したという。
予定していた修理にとりかかる。
日本の水夫たちは自分たちが出来ることは手分けし作業にかかった。
蒸気機関など特に修理の必要は無かったようであるが、それも船体から取り外し、蒸気方全員で手入れをしている。
ヤードやビームを外すためには、それを支えている無数の索具類を外さなければならない。
それも、水夫や火焚達の仕事として力を出したブルックさんは毎日、朝早くから顔を出し木村さんも公式行事が無い時はいつも現場に顔を出し、作業を見守り水夫たちを励ましている。
勝さんも艦長としてドックにつきっきりで指示を出している。
アメリカの責任者は何をするにも勝さんに具体的な修理方法や時間の見通しを説明し承諾を得て進めている。勝さんは自分たちが未熟ゆえ損壊させたものが多いので、責任者が良いと思ったことは相談せずに独断で進めてくださいと言っている。
日米、非常に良い関係で作業が進んでいる様子です。
◎ アメリカ風俗習慣の違いに驚き
日本人の宿舎は、レンガ造りの4階建ての官舎で別棟には自炊用の調理場と浴室が備えてあり、周囲には緑や花も咲いており、牧歌的な雰囲気の中で快適な住環境を与えてもらった様子。
同じ敷地内にアメリカの士官たちも住んでおり彼らの家に招かれて歓談したり、カニンガム長官の家庭にも訪問し、家族の人達との交流でアメリカ社会の実態を身近に経験し感じるところも多かったようですね。
特にびっくりしたのは招かれた時に奥様が出てきて客の相手をし、その間、旦那が動き回って食事の段取りをしてくれる。 全く日本の男尊女卑と違い、逆さまの女尊男卑であったと、風俗習慣のあまりの違いに可笑しくて驚いたと福沢諭吉は自伝にも残しています。
◎ 造船所の見学
カニンガム長官は造船所の全てをオープンに案内してくれた。
造船所の中心にレンガ造りの最大の建物があり、そこは金属加工の工場にあてがわれ、1階には鍛造工程(金属を加熱して叩いて成形)があり、ふいごが備えられ、金属の加熱には石炭が使われていた。
金属を加工する機械の駆動には蒸気機関が用いられ、圧延、切断、穴あけ等の加工が行われていた。
ボイラーから出る煙は地下を通して隣接したレンガ造りの煙突に導かれている。
当時の日本の機械といえば、はた織り機や時計、からくり等の木製の小型の構造物が殆どで金属で作られた大きな機械は観たことも無かった。
日本人には別世界のようだったのでしょうね。
工場の外に目を向けるとメア・アイランドにはサンフランシスコから電信用の海底ケーブルが敷かれ、それにより通信できていること。
また揚水用のポンプは風車を利用したポンプであったことなど、イギリスから始まった産業革命を目の当たりに見て、勉強になったというレベルを越えて、多分消化不良になるほどの新しいテクノロジーに衝撃を感じ、一方であまりに遅れた日本の現実を思い、どこから手を付けねばならないのかと戸惑いを感じていたんでしょうね。
出典元
咸臨丸海を渡る 著者:土井良三 発行:㈱未來社
咸臨丸、大海をゆく 著者:橋本 進 発行:海文堂出版㈱
咸臨丸難航図を描いた幕府海軍士官 著者:粟宮一樹 発行:㈱文芸社
20 ポータハン号の入港と使節団の旅◎異国の地で再会を喜ぶ
咸臨丸の修理が軌道に乗り出した頃 遣米使節団の正使たちを乗せたポーハタン号がサンフランシスコに入港してきた。
途中ハワイに寄って来たので少し遅れての到着となった。
ポーハタン号の日本人達は咸臨丸は居ないかと日の丸を探し、メア・アイランドに居ると聞いて、そこへ船を進めた。
メア・アイランドにはサンフランシスコより電信ケーブルを通じて連絡が入り木村さん以下咸臨丸一同が迎えに出た。
ポーハタン号は警備船インディペンデンス号の祝砲17発で迎えられ、異国の地で双方の日本人が懐かしき再会を果たした。
お互いに苦労して太平洋を渡ってきたので話は尽きず、感慨もひとしおのようだったみたいです。
その後、すぐにサンフランシスコ市長とヘイブン将軍が現れて、使節団一行の
歓迎会を明日するので木村摂津守も出席されるようにと、わざわざ誘いに来てくれたのです。またまた歓迎会、みんな好きなんですね、お金もいるというのに。
◎カニンガム長官負傷事件と歓迎会
翌日、サンフランシスコで行われる歓迎会のためポーハタンの使節団一行と木村さん、ブルックさんは迎えの船に乗って向かった。
その時、停泊していたポーハタン号より祝砲が一発打たれた。それが運の悪い事にたまたま陸地を歩いていたカニンガム長官をかすったのです。
左額半面血に染まり、服の肩の部分は破れ、ひどい怪我をして倒れたという数人のものが長官をかかえて、とりあえず家まで急いだという。
既に出発していた日本人らはそのことを知らず、歓迎会場に着いてからその事を聞いた木村さんは、急いでメア・アイランドまで引き返したという。
そのため、木村さんは歓迎会に出られず、急遽勝さんが代わりに出席したという。
◎歓迎会は盛り上がったが・・・
今度の歓迎会は音楽ホールを借りて行こなわれた。
前回と同じく両国元首の健康を祝しての乾杯に始まり、遣米使節団の新見正使村垣副使らの紹介でスピーチが始まり、彼らの気品ある振る舞い、優雅な態度それに綺麗な装束に感心する話で始まったのは良かったのですが途中からスピーチの内容が今後のサンフランシスコの夢みたいな話が始まると次から次とこの港街がどんなに発展するかで大いに盛り上がり、街の自画自賛で沸き立つのです。
と言うのは、この当時のサンフランシスコの時代背景に関係するんですがこの歓迎会の十年ほど前にアメリカはカルフォルニアをメキシコから手に入れて州政府を設立しているんです。
この事はアメリカが太平洋を手に入れたということになるんですね。
つまりアメリカから見れば、アジアや日本という国は大西洋からアフリカをまわり、インド洋、東シナ海をへて、たどり着く地球の東の果て。
その地の果ての国が太平洋を手に入れたことで、海を隔てた隣の国へと一気に状況が変わったんです。
それとほぼ同時期に、カルフォルニアのゴールドラッシュが起こります。
砂金が採れるというので一攫千金を狙う者たちが、サンフランシスコ近郊に押し寄せ人口が増大したこと。
また、アメリカ大陸横断鉄道の工事が進んでおり、それが開通すれば人や物の流れが大きく変わる。
アジアの国々から船で物資が行き来し、大きな商売となり、それが鉄道で全米各地に供給出来、まさに今後のビッグビジネスの玄関基地として輝かしい未来が待っているサンフランシスコ。
丁度そこに、今日本から通商条約を締結したいとやって来ている。これほど めでたい事が他にあろうかと言うことなんですね。
だから、こんなにも歓迎し、沸き立つそれはそうなんですが、そんな延々続くスピーチを聞いている日本人は何も解らぬ正直言って、もううんざりという気分なんです。
目の前の料理は口に合うものは殆ど無く、分からん話に拍手や愛想笑いをせにゃならんし、いつまで続くのかと思っているんですね。
係の者に『もうそろそろ、お開きにさせて頂きたいのですが』と言ったかどうかそれらしきことをお願いして、最後に市長のブルックさんを称えるスピーチがありそれに答えてブルックさんから話をされた
その中で本来参加するはずの木村摂津守はカニンガム長官が事故で倒れられたため、急遽メア・アイランドに引き返し、長官のそばについていると事故の経緯を話をされると、会場が拍手喝采でどっと湧き立ったらしいです。
◎ポーハタン号の出港とブルックさんとの別れ
歓迎会の翌日、3月16日、ポーハタン号は石炭の積載に寄港しただけなので早々にワシントンに行くためにパナマに向かった同じ日。
ブルックさんは別の船で同じくパナマ経由でワシントンへ帰郷するためサンフランシスコを離れた。
ブルックさんにとっては咸臨丸の修理も軌道に乗ったことを見届け、自分の仕事の一区切りがついたと言うことなのでしょう。
勝さんからの電信でメア・アイランドから咸臨丸の士官たちがサンフランシスコに呼び寄せられ、ブルックさんを船の中まで見送り、全員で万歳三唱したとあります
ブルックさんにどれだけお世話になった事か、士官たちの惜別の念は計り知れ無いほど深いものだったのでしょうね。
◎ポーハタン号の旅路
折角なので、ポーハタンに乗った遣米使節団のその後の旅はどうだったのかに少し
触れておくと
ワシントンに行くには、当時はパナマ迄行き、陸路を大西洋側まで移動するという
手段しかなかったのです。
ポーハタン号でパナマまで18日間の船旅、陸路はアメリカが敷いた鉄道で移動。
初めて蒸気機関車に乗りその速さに度肝を抜かれたとあります。
途中の駅で昼ごはんをとり、約3時間の列車の旅を楽しんで、大西洋側の港町に到着。
その港町に待っていたアメリカ海軍のロアノーク号(3400トン)に乗船し、ワシントンを目指す。
ニューヨーク近郊でアメリカ政府の送迎船フィラデルフィア号に乗り移りワシントンにようやく到着となる。
サンフランシスコから38日間かかっているんです。
ワシントンには25日間滞在し、その間にブキャナン大統領に謁見し、最大の任務である通商条約の批准書の交換をめでたく終えた。
その後は連日忙しく博物館、国会議事堂、海軍工廠、造船所、海軍天文台等を見学日本の新しい国造りについての勉強を精力的に行っているんですね。
それらの合間を縫って通貨の交換比率の交渉も複数回行い、ワシントンでの任務を終え、フィラデルフィアで6日間滞在し造幣局を見学し、ニューヨークに移動。
彼ら一行も、観るもの、聞くもの、その技術力の高さに衝撃を受けたという。
使節団の監査役である小栗備後守忠順(おぐりびんごのかみただまさ)はこう残しています。
『何もかもすばらしい。我が日本もこうでなくてはならぬ。
攘夷などとは馬鹿馬鹿しいそんなことをしていたら、各国の餌食となりやがては分割されて植民地になるのがおちだろう』と、そして今見てきた科学の進歩を日本にも取り入れ世界と対抗できる力を養わねば、そしてそれを自分がやらずに誰がやるというのだ。
と誠に力強いと言うか、興奮するほどの衝撃を受けているんですね。
一方でアメリカ人をびっくりさせたのは通貨交渉の際に日本から持参した天秤ばかりと算盤だったといいます。
一分の狂いもない精密な天秤ばかりと彼らが必死で通貨の計算に精を出しているときに、一瞬で計算してしまう算盤という物、その正確無比な答えに向こうの技師たちは仰天したといいます。
ニューヨークではブロードウェイを馬車で行進し、そのパレードを観るのに50万人もの人が集まり大歓迎、どこへ行ってもすごい歓迎ぶりですね。
ニューヨークでは13日間滞在し、一連の滞在を終え帰国の途に就きます
帰りはナイアガラ号(5540トン)に乗船し、大西洋を横断し、アフリカ大陸の西側を南下、喜望峰を回って、インド洋に出て、インドネシアのバタビア、香港を経由し9月27日に品川に帰着。
1月の22日に横浜を出港して実に8ヶ月強に渡る、世界一周の大事業だったのです。
出典元
咸臨丸海を渡る 著者:土井良三 発行:㈱未來社
咸臨丸、大海をゆく 著者:橋本 進 発行:海文堂出版㈱
咸臨丸難航図を描いた幕府海軍士官 著者:粟宮一樹 発行:㈱文芸社
拙者は食えん!サムライ洋食事始め 著者:熊田忠雄 発行:㈱新潮社
WEB 歴史街道 万延元年遣米使節団 〜 アメリカ人を驚かせたサムライ達
https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/4681
㉑メア・アイランドの日々、そして食事は
◎サンフランシスコ散策
ポーハタン号も去り、ブルックさんも帰郷し、メア・アイランドは平穏な日々に戻ったようです。
皆は時間が空いている時はサンフランシスコまで行き、買い物を楽しんでいる様子。
ある日、福沢さんは中浜万次郎と一緒に書店を訪ね、万次郎の薦めるウェブスターの辞書を買った。
後に『これが日本にウェブストルと云う字引の輸入の第一番じゃ』と自慢となる逸品。
他に中国の商人から『華英通語』という英語の言葉を漢字で発音と訳を併記した辞書も購入し、これらが福沢さんの英語の勉強と教育のための武器となるんですね。
また、ある日福沢さんはぶらっとサンフランシスコの写真館をたずね その写真屋さんの娘さんと一緒に写真を撮っているんですね。
その当時、日本には既に写真機は入っていたんですが、まだ写真館というものは どこにも開業されておらず一般にはまだまだ物珍しい存在で、福沢さん以外にも 何名かは、その写真館をたずね、記念にと写真を撮っている。
料金は2ドルだったらしく、1時間ほど待てば仕上がっていい記念品としてもって帰れたようですね。
(当時の2ドルがどれくらいの価値かが分かりませんが)
ただ、福沢さんはアメリカ女性と一緒に写真に収まったというのが、自慢であったらしく、帰国の途に着いた時、船の中で若い士官たちに自慢そうに見せていたということです。
◎はたしてアメリカの食事は口に合ったのか?
咸臨丸やポーハタン号でアメリカにやってきた日本人たちは歓迎会等で出された数々の西洋料理は自分達の口に合ったのか気になるところでありますね。
特にワシントンまで行った使節団の正使達は船上での食事は日本から持ってきた醤油や味噌等の調味料はあるので、それなりの味付けは出来るのですが、陸上での移動や各都市を訪問した時は出される食事がすべてであり、好き嫌いの好みを挟む余地が無いので、それらを食するしか無いんですね。
サンフランシスコでの最初の晩餐会の食事についてある者が詳細に残しています。
・ 乾蒸餅(乾いたパンのこと)
・ 氷水(パンと氷水は初めからテーブルの上に用意されている)
・ 吸物(白い大皿に入っている、味が甘くて臭い、材料解らず)
・ 鮭(餡掛け、油臭い)
・ 牛(塩煮で葛粉が掛けてある、油臭いが食べるに足りる)
・ 豚(じゃが芋に小麦粉を摘み入れたものを加えてあるが油臭い)
・ 小芋(むかごの事、皮を剥いて塩で煮てある)
・ 菜ひたし(これも塩だけで旨くない)
・ 飯(わが国のものと変わらず)
・ 蒸餅・饅頭(中に餡が入っていて味は酸っぱい、ブドウから作ったという)
いずれも大皿に盛り、フヲーク(さじに似て四本胯の裂けたるものなり)、ナイフ(小包丁なり)、スプウン(食さじ)を人数に応じてテーブル上に並べ、食せんとする時、是三品を用い、箸を用えずとある。
この詳細を記録した者の感想として『戸惑うのは最初のうちで、その味に慣れさえすればどうという事はない。
外国に来て飲食に苦労するのは井の中の蛙のことでそれでは、少しの進歩も期待できない』と結構強気の感想なんですが、これが続くとさすがの進歩的考えの持ち主も、体が欲するものには勝てないようで、後の記述には、こう書かれている。
『いずれも塩淡くして食するには能わず(あたわず)調味料も皆、わが国の味に非ず皆困り果てている』と本音が出てしまうようです。
最初から全く洋食お手上げ組もたくさんいたようで、別のものはこう言う。
『誠に料理、美を尽くし、この地には大馳走と言えども、我が日本人のためには塩気もなく、油の香りありて食すること能わず、されども空腹に堪えかねし故何れも少し食するなり』
また、別の者も『最初、吸物の如き物大皿にて盛りだす、鮭のあんかけの如きものその外、種々差し出すと言えども食する事不能、パンに砂糖を付け食し、只飢えを凌ぐのみ』
腹が減ってるのに、目の前に出された料理が全く口に合わず、食べられないという ただ飢えを凌ぐためだけに口に入れるという、誠に気の毒な状態。
その点、咸臨丸の一行は通常はメア・アイランドの宿舎で自炊なので、材料が揃うかどうかは別にして調味料等は日本から持参してきたので、自分たちの口にあう満足に近い食事を摂ることが出来、結構楽しんでいる様子。
ある日、福沢さんは頂いた鮫の身を天ぷらにしようと、揚げていたら、鍋が倒れて大きな火が上がった失敗をしている。
石造りの建物だったので火事には至らなかったが、日本の家屋だったら、大火事になっていただろうと、書いている。
一方、遣米使節団の一行はサンフランシスコ以降、各都市訪問の際は、先方なりホテルで出された食事が全てなので、こういう状態が続くと、精神的にも悪いんですね。
使節団の副使の村垣さんはフィラデルフィアでの食事のことを、日誌にこう残している。
『その日は汽車での移動中にパンを食べただけなのでひどい空腹を覚えていた。
ホテルに着いて、出てきた料理を観て、一同から非難の声が上がった。
出されたものは、これまた口に合わない肉料理とご飯、でも御飯さえあればと思って手に取ると、ボウトル(バター)をいれたるものにして、いかに空腹なれど食することならず。
通訳を介して米飯は良いがボウトル入はノーと申し出ると、今度は砂糖をまぶした御飯が出てきた。いやはや異国の食事には全く苦労する』と嘆いている。
食事の合わない理由は一つには、当時の日本人は牛や豚、鶏などの肉類は殆ど食べていなかったなのに、メインの料理は食べ慣れない肉料理、肉独特の臭みには慣れなかったのでしょう。
2つ目はやはり、味付け。味噌や醤油の味付けが体に染み込んでいる日本人が塩味のみで、それも薄味とくれば美味しいと思うには程遠いものだったのでしょう。
日本人は魚が好きだということで煮魚を出してはくれるが、味付けが薄塩だけでは確かに食べたくなくなるのは分かりますねえ。
3つ目は油の臭い、特にボウトルと呼んだ『バター』、どれもこれも、この臭いもうウンザリという感じです『すべてボウトルの香り有りて食しかねしに』と嘆く。
使節団の帰国の途は先にも書いたナイアガラ号での長旅であったが、途中味噌も醤油も、底をつき無い無いづくしの中で、命を繋げるのみの食事が続き顔を合わせば、早く日本へ戻って、味噌汁と漬物で御飯を食べたいものだと語り合うばかりであったという。
これで日本に帰れるとなると、寝ても覚めても頭をよぎるのは飯のことばかり わかるような気がしますねえ。
出典元
咸臨丸海を渡る 著者:土井良三 発行:㈱未來社
咸臨丸、大海をゆく 著者:橋本 進 発行:海文堂出版㈱
咸臨丸難航図を描いた幕府海軍士官 著者:粟宮一樹 発行:㈱文芸社
拙者は食えん!サムライ洋食事始め 著者:熊田忠雄 発行:㈱新潮社
㉒ サンフランシスコを離れて復路航海へ
◎咸臨丸の修理費
咸臨丸の修理の完了も間近くなって木村さんから修理費の支払いについて請求を申し入れたのに対し、カニンガム長官から政府の命令でアメリカ側で全て負担するので、支払いはいらないと返事が来た。
それはそれは、そうですかと済む訳もなくそれは困ると何度も話をしたみたいですが頑なに謝絶されてしまいます。
それはそれは、そうですかと済む訳もなくそれは困ると何度も話をしたみたいですが頑なに謝絶されてしまいます。
困った木村さんは、それなら、工事に尽力してくれた人達にお礼をしたいと申し出たのですが、これも固辞されてしまう。
困り果てて、修理のことではいつも相談にのってくれていた工事責任者のマクディガルさんに相談し、サンフランシスコ市に寄付をさせてもらうという話で落ち着いたという。
その額2万5000ドル。
この2万5000ドルという額は、請求がなかったものですから、実際の金額はどの程度のものであったのかは解らず、日本側の見立てた金額なのですね。
それにしても、アメリカ政府も全ての費用は日本に負担させないという、この太っ腹には驚嘆させられますね。
◎お世話になった方々とのお別れ
5週間がかりで艦の損傷箇所に手が加えられ、修理が完了し、咸臨丸の船員達も順次、宿舎を引き上げ咸臨丸に移動した。
メア・アイランドを去る前日、木村さんはこの地でお世話になった人々を招待しご婦人たちを予てから希望であった咸臨丸の見学会を開き、自由に見学してもらい夜は宿舎で送別の宴を張った。
招待客には事故後の不自由な体で無理を押して来てくれた、カニンガム長官とその家族、修理の責任者のマクディガルさんの家族、その他造船所の士官たちら大勢がご馳走とシャンパンで夜遅くまで楽しい会話ではあるが、別れを惜しんだ。
翌日、出港の日も木村さんはカニンガムさんの家を訪ね最後の別れを告げた別れる際は家族総出で門のところで、手を握り別れたとあります。
木村さんはこの時のことを、こう記している『惜別の情、恋々捨てがたく互いに衣を濡らし・・・』と想えば、サンフランシスコでこんなにも素晴らしい人々との出会いと経験があるとはそれこそ夢にも思わなかった木村さんら咸臨丸の乗組員にとっては、その別れは暖かく接して貰ったが故に涙、涙の別れであったであろうと思われますね。
◎さようならメア・アイランド、さようならサンフランシスコ
午前10時、錨を揚げて、思い出多いメア・アイランドの岸壁を離れる。
造船所の人々が妻子に至るまで見送りに来てくれて白いハンカチを手に持ち高く揚げて振りかざし、別れを惜しんでくれた。
船はサンフランシスコに一旦寄港し、ここでも乗組員を快く迎えてくれた市長さんを始めとするお世話になった方々への挨拶も済ませた。
想い出をいっぱいに刻んで3月19日、咸臨丸はサンフランシスコからハワイに向け出帆した。
復路の航路はブルック大尉の立てた計画に基づいたものであったという。
サンフランシスコからホノルルまでは南に流れるカルフォルニア海流に乗って一旦南下し北緯20度から30度付近で北東貿易風と常に西に流れる北赤道海流を捉えて西進しホノルルへ、その後は東経160度付近から針路を北に取りながら日本に向かい、八丈島付近からは日本海流に留意しながら浦賀に向かうという航路。
復路は往路とは打って変わって海は静かで咸臨丸は満帆でホノルルに向かって走った。指揮をとったのはブルックさんから一番信頼の高かった浜口さんと小野さんであったであろうと、言われている。
勝さんは病気は治っていたであろうから指揮をとった筈であるが、そこのところの記述は残ってないという。
4月4日、無事ホノルルに入港
物資の積み込みに寄港しただけなので、翌日には水、食料、石炭等の積み込みは終えた。
国王との面会は極めて簡素に終わり『若い土人の種では有るが、礼儀にかなった容姿であり、自分を上座に導いてくれた』との僅かな記述があるだけで、王宮の建物や興味を惹かれたことは何も書かれていない。
7日、ホノルルの寄港も短期に終わり、日本に向けて出帆。
その後の航海も順風満帆で進み、往路とは全く異なる航海ではあったが、反対に全く風の吹かない海域があり、帆船には難所となる。
咸臨丸は蒸気機関搭載でそれを動かすことになるのであるが、なにしろ暑い海域で気温は30度を超える中で石炭を炊くというのは、その機関室は灼熱地獄となり
火焚たちも大変で、甲板に上がる鉄の梯子が熱くて手で触れないほどになるという少々、熱くとも、苦しくとも台風が発生する前に日本に向かわねばとの思いで船を北に進める。
日本に近づくと黒潮に阻まれ約1日分ロスしたと書いている。
5月5日早朝、天気荒れ模様の中、深い霧の向こうに陸地らしき物が見える。
その地点こそ房州の州崎であることが判り、乗組員一同、歓喜が全身を駆け巡ったとある。
朝10時前、船は浦賀港に入港、無事に帰国でき教授方以下、士官、水夫、火焚に至るまで乗組員たちは誰かれとなく抱き合って喜んだ。
その時、思いがけないことが起こった。
突然、浦賀奉行所の役人が物々しく船内に乗り込ん出来て『水戸人はいないか?』と鋭い剣幕で詰問してきた。
去る、3月に井伊大老が水戸の藩士に討たれ、暗殺されたらしく、取り調べるという。
乗組員らは驚きで顔をひきつらせたという。
勝さんがすかさず、冷やかし気味に『アメリカに行った者の中には、水戸人はいねぇよ、すぐけぇれ』とべらんめえ口調でまくし立てると、役人たちはド肝を抜かれて取り調べもせず、帰っていったとあります。
アメリカへ行っている間に、世の中が大きく変わって行った事を肌で感じた出来事ですね。
正午に浦賀港を出港し、4時過ぎに横浜沖に投錨。
1月19日に浦賀を出港してから140日余り、未知の太平洋を往復横断し、アメリカの地を踏み、交流を重ね、多くの経験をし、視野を広めた。
近代日本の黎明期にふさわしい事業を完遂して日本に帰ってきた。
ただ、寂しいのは、サンフランシスコでは入港時も現地でも、また別れ際も大勢の人に出迎えや見送りがあったのに、日本では出港時も帰国の入港時も誰も見送らず、誰も出迎えず、淡々と過ぎているんですね。
咸臨丸の乗組員に対しては遣米使節団の一行の帰国を待って、その時の暮、12月に幕府から褒賞が出されている。
木村摂津守 金十枚 時服三
勝 麟太郎 金五枚 時服三
小野友五郎 銀五十枚 時服二 と続く
金一枚は大判一枚の意味で小判にして十枚、即ち十両に相当。
時服とは綿入りの小袖であったようです。
咸臨丸という軍艦の生涯のハイライトとも言うべき太平洋横断はこうして無事に成功裏に終わり、日本の歴史に語り継がれることになったのですね。
蛇足になりますが、旧暦では1か月は29日と30日の大小の月で、1年はその12か月でしたので354日となり、陽暦の365日とズレが生じ、そのままですと季節が大きくズレてしまいますので約3年に一度、同じ月を2回繰り返し、1年を13か月とした年を設けました。
繰返した月を閏月と呼び、この万延元年という年は3月の次に閏3月が来て、3月が2か月間あるんです。
したがって咸臨丸の修理が始まったのが3月4日、修理が完了したのが3月9日でこの間、5週間かかったとあるのはそのためなんですね、ややこしいですね。
出典元
咸臨丸海を渡る 著者:土井良三 発行:㈱未來社
咸臨丸 栄光と悲劇の5000日 著者:合田一道 発行:北海道新聞社
咸臨丸、大海をゆく 著者:橋本 進 発行:海文堂出版㈱
咸臨丸難航図を描いた幕府海軍士官 著者:粟宮一樹 発行:㈱文芸社
㉓ 時代の荒波を往く咸臨丸
span style=”color: #0000ff;”>◎周辺緊急事態に駆り出される
咸臨丸が太平洋を横断し、帰国した当時の情勢は、外国人排除の攘夷思想やら、密かな討幕運動やらで国内は混沌とし、日本の周りには外国の軍艦がうろうろとうろつきまわり誠に物騒で、一触即発が何時でも、何処でも起こりそうな政情不安な社会だったんでね。
幕府の軍艦である咸臨丸も事あるごとに駆り出されていたんです。
1861年3月には対馬事件が発生し、長崎の対馬に派遣。
対馬事件とはロシアの軍艦が対馬を勝手に占拠し、兵舎、練兵所などを建設し挙句の果てに島人を殺害し、実効支配をしようとした事件で、咸臨丸は約一か月その交渉に派遣。
ただ、この時は交渉は実らず、のちにイギリス海軍の力を借りて解決したという事件。
次は小笠原の領有権問題
これはイギリスが日本への打診もなしに勝手にイギリス出版の万国地図に小笠原諸島はイギリス領であると記載されていた事件で、これも放っておけないと幕府は咸臨丸をその調査に行かせて、各国に日本のものであると通告しこれは解決したんですが、この航海の時に機関が故障し大変苦労して帰ってきたようです。
もうこの頃から機関の故障が目立って多くなりますね。
欧州の列強は隙あらばと日本を狙っていた時代で、日本も海軍力を高めるためオランダに留学生を派遣します。その時、咸臨丸は、江戸から長崎まで留学生を送るという仕事をしていますが、この時も機関が故障し、予想外に日数がかかっています。
この時、送った留学生の中に後に、幕府の海軍副総裁になる榎本釜次郎(のちに武揚たけあきに改名)が含まれています。
日本の沿岸では外交問題にまで発展する事件が頻発するようになります。
長州藩がアメリカ、フランス、オランダの艦船に無通告で発砲し、報復として三国の連合艦隊に関門海峡で長州藩の砲台が攻撃されるという事件があったり、武蔵の国の生麦村でイギリス人が殺傷された生麦事件に端を発し、鹿児島湾でイギリス海軍と薩摩藩が激突するという薩英戦争があったりと、先の見えない暗雲が立ち込める世の中へと引きずられていくんです。
◎咸臨丸の軍艦籍、はく奪
そんな中、咸臨丸は度重なる機関の故障のため、1866年、浦賀で修理のため係留中にボイラーの交換を幕府に申し出たんですが、当時の幕府は財政も苦しくお金は出せないとのことで、機関は外し、帆走軍艦として扱われることになったのですが、翌年67年には軍艦籍からも外され、ただの輸送船になってしまって大砲も外されてしまったんですね。もう海軍には不用な船となったんです。
◎榎本艦隊に引きずり込まれる
1868年、幕府の存続を賭けた戊辰戦争が勃発します。
初戦の鳥羽伏見の戦いでは薩長同盟軍(官軍)の勝利に終わり、この時、幕府所有の8隻の軍艦のうち4隻を官軍に引き渡すということで決着し、幕府の残る4隻を率いていたのがオランダ留学から帰国していた榎本武揚海軍副総裁。
新政府軍との内戦は江戸城明け渡し後も奥羽越に飛火し、各地で激戦が繰り広げられた。
この時、既に機関も大砲も外された咸臨丸は輸送船として駆り出され、、負傷者の輸送を任務に充てられた。
そのためその船内は血なまぐさい臭気であふれたとされています。
8月に入って、各地での敗戦が伝えられ幕府の敗戦色が強くなった時、榎本は4隻の軍艦と咸臨丸含む4隻の輸送船で徳川の幕臣2500名を率いて江戸からの脱走を試みます。
もう、ズタズタになった咸臨丸なのですが、まだ戦に引きずられて行くんです。
目的地は蝦夷の地、北海道。
榎本は幕府が倒れた後、旧幕臣達の生きるすべを確保するため、蝦夷地を開拓し新国家を建設するつもりだったんです。
8月19日の真夜中、咸臨丸は軍艦回天丸に曳航され、途中の集結地である仙台湾を目指し品川を出帆します。
◎嵐の中をさまよう咸臨丸
咸臨丸は引き綱で回天丸に結ばれ、離れないように出帆したんですが朝方、4時ごろ、観音崎に差し掛かった時、突然、咸臨丸が暗礁に乗り上げ、動けなくなったんです。
回天丸が何度も離礁を試みてくれたおかげで、なんとか離れることは出来たのですが、他の船に大きく引き離され、その後、大嵐に見舞われ、ついに、回天丸と結ばれていた綱が引きちぎれたんです。
機関を搭載していない咸臨丸は荒れ狂う海上をさまよい、転覆の恐れが出てきたため、船の安定を図るため止む無く、3本マストの最も大きいマストを切り倒したとありますが、まさかメインマストをのこぎりで切り倒したと言う事なんでしょうか?
このまま進むことは到底できず、進路を大きく変え清水港を目指します。
清水港は駿府藩として江戸城、明渡しに応じた徳川が駿府で70万石として御家存続が決まったところ。徳川を頼っての行動だったんでしょう。
もし、新政府軍にでも見つかれば、賊軍として処刑は確実だったんですね。
清水港を目指しますが、激風に翻弄され、ままならず、2本マストになった咸臨丸は命辛々、伊豆の下田港にたどり着いたとあります。
その後、咸臨丸の後を追ってきた蟠竜丸に曳航されて清水港に入ります。
駿府藩の徳川にとっては、もはや安寧の地を得たところという心境、そこに脱走してきた船をかくまって受け入れる訳にはいかない。2隻とも艦船は朝廷に献納し謹慎せよと命じた。
蟠竜丸はその勧告を拒否して単独で清水港を出港して逃げます。
◎壮絶なる砲撃をうける咸臨丸
9月18日、突如新政府軍の富士山丸、飛竜丸、武蔵丸、の3隻の軍艦が清水港に入港してきた。
情報をキャッチして咸臨丸を追ってきたんです。
先頭の富士山丸が停泊中の咸臨丸に接近し、いきなり大砲を発射。飛竜、武蔵もそれに加わる。
その時、咸臨丸に乗船していたのは60人余り、修理中の咸臨丸は銃器類を全て陸揚げし丸腰の状態、乗組員は白布を振って『撃つな!撃つな!』と叫び、戦う意思のないことを告げますが、発砲は止まず。
富士山丸の兵士たちが発砲しながら咸臨丸に乗り込こんだ。
刀を抜いて応戦した咸臨丸の乗組員もいたようですが圧倒的な銃器の差で戦いは一方的で甲板は血みどろに化した。
駿府藩の徳川を訪ねていた艦長の小林は襲撃の一報を受け、急ぎ艦に戻り甲板に駆け上がって『艦長の小林紋次郎である!』と名乗ったのであるがすぐに捕らえられ縄で縛りつけられ、殴る蹴るの暴行を加えられ、意識を失って生け捕りにされた。
甲板に転がっている死体は新政府軍兵士によって片っ端から海に放り投げられた。
咸臨丸は拿捕され、富士山丸に曳航され立ち去った。
修理中の咸臨丸はこの襲撃でまたもや傷つき、哀れな姿となって捕らえられたんです。
この時より,咸臨丸は新政府軍の所有となったんです。
海面には凄惨な屍が累々と浮かび、三日経っても放置されたままで、異臭を放ちだした。新政府軍を恐れて誰も手出しができない状態だったといいます。
このまま、捨ててはおけぬと乗り出したのが、清水港を縄張りに持つ、清水の次郎長であったと言われています。
清水の向島の中州に丁寧に埋蔵してあげたとあります。
歴史的な快挙を成し遂げた咸臨丸の雄姿は見る影もなく、戦に翻弄され満身創痍で捕らわれの身となってしまったんですね。
出典元
咸臨丸 栄光と悲劇の5000日 著者:合田一道 発行:北海道新聞社
咸臨丸難航図を描いた幕府海軍士官 著者:粟宮一樹 発行:㈱文芸社
明治維新の正体 著者:鈴木壮一 発行:㈱毎日ワンズ
㉔咸臨丸の最後
◎北海道開拓使の最後の仕事
明治2年、戊辰戦争も終焉を迎え、明治政府は北海道開拓を推進する目的で北海道開拓使という官庁を設置し、移民政策を進めます。
咸臨丸はそのための人と物資の輸送船としての任務に就きます。
咸臨丸の最後の仕事も旧仙台藩の片倉一族を輸送する仕事。
戊辰戦争で敗れた藩士は蝦夷の地に新天地を求めるしかなかったのです。
◎函館からの最後の航海
旧暦の9月20日(新暦の11月2日)午後1時頃、401名を乗せ、函館を出帆、天候は穏やかで特に何の心配もなく順調な航海が始まった。
ところが釜谷に差し掛かったころ、突然、突風が吹き始める。
潮の流れも速く、強い南風が吹き荒れアメリカ人の船長(政府が船長として雇った)や乗客にも不安がよぎる。
一部の帆を降ろすが既に船の自由はなかったとある。猛烈な嵐の中、しかも日も落ちて真っ暗の海上を進む咸臨丸。
6時頃にサラキ岬に差し掛かったころには、岬寄りに流されてゆく、このままでは陸地に激突してしまう。
『錨を投げろ!』突然荒々しい声が聞こえ、アンカーロープが切られ錨が次々投げ込まれる。
全く自由の利かなくなった咸臨丸はサラキ岬から突き出た岩礁に乗り上げて、船底が割れて海水がどっと入り込んできた。
船体は大きく傾き、船内は大混乱になり、もう手の施しようがない。この騒ぎは約200m離れた陸地からも望見され、集落の人々が提灯を振って集まってきた。
一人の人間が咸臨丸から飛び込み岸まで泳いで救助を求めた。
松明を掲げた助け舟が咸臨丸に近づき暗闇の海上を何度も往復して救助し、全員無事に上陸が果たせたころには、21日の明け方であった。
その後、咸臨丸の離礁作業は函館支庁の命で行われたが、容易にはかどらず、24日にも激しい風雨が襲って、25日未明に船体が沖に引きずられるように海中に没した。
これが、咸臨丸の最後だという この話が定説となって、今日まで伝えられ、一応、公式的には多くの書物に 咸臨丸は津軽海峡のサラキ岬沖で沈没したと言う事になっている。
なっているというのは不思議な事にこの沈没を見た人は一人もなく、また出来事として、新聞や瓦版にも何の記録も残ってないんですね。
残っているのは、開拓使の函館支庁の杉浦誠という権判官が本庁へ報告した『咸臨丸事故届け出書』だけみたいです。
でもこのようにその時の状況がかなり詳しく『開拓使公文録』『白石ものがたり』『木古内町史』に、それぞれ記載されているのも不思議な事ですよね。
◎つじつまの合わぬ記述
ノンフィクション作家で『咸臨丸の栄光と悲劇の5000日』の著者、合田一道氏はこれらの記述に疑問を呈する。
報告書を書いた杉浦誠氏の日記に注目、この人は毎日の出来事を克明に記録して毎日の天候も必ず記載し、日記として残している。
この19日、20日の天候はどうなのか。調べてみると不思議な事に、この両日の天候の記載がない。その前も、後の日も記載されているのに、この日だけ何故か。
そして、本庁への報告書には『19日小樽へ向け出帆』と記されているのに、日記には『20日午前8時出帆』となっている。函館を出た日が違っているではないか。
そして、不思議な事に、その後の28日の日記にはこう記述している『咸臨丸の離礁のための手配をしているが、まだ行き届かず、船具等の陸揚げの申し出を受けている』と25日未明に海中に没したとある咸臨丸が28日の段階でまだ、離礁できずにそのまま海上に身をさらしていると書いているのです。
日記の類は人に見せるためのものでもなく、そんなところに嘘を書く必要がない、とすると、咸臨丸は25日には沈んでない事になる。
そしてもう一つ、合田氏は『伊達藩士と北海道開拓』(札幌宮城県人会刊)という小冊子に次の記述を見つける。
座礁した咸臨丸から助け出された乗客は陸路を函館まで徒歩で戻る事になるのであるが、その時の様子をこの小冊子にはこう記しているのです。
『一同は陸路を函館へ戻った。
酒に酔い進路を誤った赤毛蒼眼の船長もその中にいた、白い猫を抱いた船長はかつて福沢諭吉をアメリカに運んだ由緒ある咸臨丸をこの北の海に沈めたのである』とこのアメリカ人士官の船長は酒に酔いながら操船していたと云うのである。
何やら、この突然の嵐に出会い、不運にも沈没したという話、どうも胡散臭い匂いがしてきますね。
この文章を書いている小生もどうも理解しがたい記述があるのですが①なぜ小樽に向けて航行するのに、わざわざ危険な夜をめがけて出帆するのか
②午後一時に函館出帆、サラキ岬で夕方六時、函館からサラキ岬まで直線距離で20Km程度、5ノットで進んで2時間ちょっと、距離感が合わない
③操船不能なほどの大嵐の中で、どうして錨を投げるのか。アンカーロープに引っ張られ、あらぬ方向に船は回転し、横波を受けて転覆してしまうではないか。
そんな無謀な事をする筈が無い。
④船の自由も利かない暴風雨の中、咸臨丸から飛び込んで岸まで泳ぎ救助を求めたとあるが、誰が考えてもその波の中を200mも泳げるとは思われない
⑤救援に来た村人が提灯を下げて?ましてやかがり火を焚いてとあるが、暴風雨の中、これは嘘としか思えない。
◎開拓使のデッチあげ説
つじつま合わせをすると、多分、こういう事ではなかったかと。
『咸臨丸は何の心配もない気象状況の中を函館から出帆した、風も波もほとんどない安心感から船長は飲酒しながら操船していた、鼻歌交じりの気分だったのだろう。
飲酒が手伝って安全確認を怠り、船があらぬ方向に進んでいるとも気が付かず、不意打ちを食らったように、突然、岩礁に乗り上げ、その時初めて我に返った。
幸い乗客には怪我人がおらず、岸から近かったので全員避難する事が出来た』この事故の報告義務を負う杉浦権判官は苦悩したんでしょう。
北海道開拓使が創設されてまだ2年、自分は函館支庁の責任者、船の運航に関する責任は函館支庁にある。
咸臨丸は民間の会社(木村万平商店)に運航管理をまかせていると云うものの政府の官船には違いない。その船が船長の酔っぱらいで座礁し、船体が大きく損傷し、航行不能となりましたとは、口が裂けても言えるものではない。
木村万平商店と函館支庁の関係者が苦悩の中で導き出したのが、『暴風雨で座礁その後、沈没した』という事にしてしまおうと口裏を合わせたのでしょう。
杉浦は日記に記載するのに、その日の天候が、暴風雨でもないのに、後ろめたさもあり、そうは書け無い。せめてもの無記載が、官吏としての正義感だったのでしょう。
この事故での犠牲者は一人も出なかったとの報告であるが実際には61歳の高橋なる人物が21日に亡くなっているのであるが、この事故との関連性は無いという解釈で咸臨丸事故届け出書には全員無事で『一人も怪我無し之候』となっている。
つまり咸臨丸は書類上、明治2年9月25日に海中に没し、この世から消えたことに成ってしまったんです。
◎何処へ行ってしまった咸臨丸
『幕末軍艦咸臨丸』という1938年出版の書物があり、著者は文倉平次郎氏あることがきっかけで咸臨丸について克明に調査され生涯にこの書物一冊だけ上梓された方。
その本の最後にこういう記述がある。
『その後咸臨丸は引き下ろされ函館にて大修繕が加えられ、一年近くも掛かった』『明治5年開拓使は英国の蒸気船を購入した。
その後、咸臨丸の取り扱いは回漕会社に命じたので開拓使の手を離れ私立の回漕会社の手に保管された』と。
『その後はどうなったかは分からないが、どこかの時点で咸臨丸はその生涯を終え廃船になったものではないかと思う』と合田さんもそう結んでおられる。
幕末の日本史の中で燦然と輝く咸臨丸もその最後は誰に関心を持たれることも無く、何一つ残すこともなく廃船として処分されたのかと思うと、寂しいですね。
今となっては、確認のしようもなく、真実はわからずじまいで終わってしまう訳ですが。
実際沈没してなくて、その後も生かされていたのなら、世間に内緒で生きていた事になるので、当然何の記録もなく、最後の解体時も後世に残すものは、写真すら残すことができなかったんでしょう。
そのあたりが悔やまれますね。
出典元
咸臨丸 栄光と悲劇の5000日 著者:合田一道
発行:北海道新聞社
咸臨丸難航図を描いた幕府海軍士官 著者:粟宮一樹
発行:㈱文芸社
幕末軍艦咸臨丸 著者:文倉平次郎 発行:巌松堂
幕末の蒸気軍艦 咸臨丸 船の科学館 資料ガイド7
発行:船の科学館
木古内観光協会HP www.town.kikonai.hokkaido.jp/tourism/
㉕最終回 歪曲された咸臨丸の歴史
◎遣米使節団って知ってますか?
少し以前の小生なら、この表題の様な質問を受けたなら、きっと『はい、勝海舟がリーダーとして咸臨丸に乗って、日本人初の太平洋を横断し、アメリカに渡って条約を交わしてきた一行です』と答えていたでしょう。
でも『咸臨丸の夢』を書き終えようとしている今、大きな間違いであったと、恥かしい思いです。
なぜ、そんな間違いを犯してしまったのか。そのへんの事情を語る前に、今一度咸臨丸の太平洋航海と渡米について考えてみたいのですが。
多くの記述に咸臨丸はポーハタン号の伴走船としてとか、護衛船とかの理由で太平洋を渡ったとあるのですが、一度だって一緒に併走して航海したことがないんですよね。
また、木村摂津守を副使として乗せ、万一の場合も使節団としての役割を果たせるようにとの理由である事も、咸臨丸渡米の理由。
もしそうだとすれば、木村さんはサンフランシスコからポーハタン号に乗り換えるべきだが、そうはしていない。本人はワシントンに行きたいと思っていたようであるが、勝さんら乗組員に『あなたが居ないと』と説得され、断念したとあるのですが、本来そう決まっていたなら、幕府の指示に従わないなんて、あり得ない。
事実、サンフランシスコでポーハタン号の新見正史や村垣副使から木村さんに対して、その件についての要請がない。
咸臨丸は外洋の航海練習としての目的だけでは幕府の承認を得られないので色々と肉付けしたんだと理解するのが素直な見方でしょうね。
それでも、サンフランシスコで日本の武士が偉く歓迎され、友好関係を築いて帰ってきたというのは大きな功績であることには違いない事。
経験したことのない荒海を渡り、見たこともないアメリカで交流を重ね、また数々の近代文明への研鑽を深め、その後の日本に与えた功績は多大であると思うのですがしからば、咸臨丸の功績者は誰かというと、申し訳ないが勝海舟さんでは無いですね。
もっと、讃えられていいのはジョン・マーサー・ブルック大尉であり、木村摂津守ではなかったのか。
ブルックさんに関しては、あの荒波を操船してくれた功績もさることながら、サンフランシスコで自身の人脈を最大限に屈指して、無届の入港を日本の公式訪問のレベルまで押し上げてくれ、数々の友好関係のお膳立てをしながらも裏方に徹した畏敬の念すら抱かせる人物。
正直、この人が居なかったら、サンフランシスコで物資だけ積み込み、そのまま帰ってくるという、練習航海だけの渡米になっていたかもしれない。
そして、海の向こうで、その歓迎を堂々とした日本の武士として受け、尊敬の念すら抱かせた、木村摂津守。
咸臨丸の見学会では男子のみ許される乗船、何とか一目でも見たいというご婦人が男装して乗船したと云う。木村さんは変な素振り一つせず、案内し下船の時にありがとうございましたとそのご婦人に『かんざし』を記念品としてそっと手渡したとあります。
こういう事ができる人が当時の日本におられたんですね。
福沢諭吉は生涯友として木村さんを敬愛したとありますが、分かりますね。
咸臨丸というと勝海舟となっているのが一般的な書き方であり、言わば常識みたいになっているんですが、咸臨丸に関して言えば、勝さんの貢献度は薄いですよね。航海中は酔っぱらって寝てばかりで、また、ふてくされた態度で皆を困らせる事もしばしばで、とてもリーダーとしての品格に疑問を持たざるを得ない行動でしかなかったですから。
◎郵政省が間違えた
右の切手は日米修好通商条約締結百年を記念して1960年に発行された記念切手なんですが、絵柄の船は咸臨丸なんです。
この絵は咸臨丸の士官鈴藤勇次郎が敬愛する木村さんに贈った咸臨丸難航図という、有名な絵なんです。
これを見れば通商条約締結でアメリカに渡ったのは咸臨丸と言う事になってしまうんです。
咸臨丸には遣米使節団の誰一人も乗ってないんです。
明らかな間違い、それも事もあろうに、国の中央省庁である郵政省がですよ。
◎NHKも間違えた
2019年に放映された大河ドラマ『いだてん』で、放送事故とも言えるような間違いをしてしまったんです。
ドラマの中で役所広司演じる加納治五郎が金栗四三に語りかけるシーンでのこのセリフ。
『かの勝海舟先生が日米修好通商条約を結ぶに際しアメリカに渡った時、日本人の使者はちょんまげに羽織袴、腰には刀を差していた。そりゃ、山猿と笑われただろう。
たかが、50年前の話だよ・・・』
こんなセリフを言わせて、その後の画面で右の写真を出し、『日米修好通商遣米使節団』と書いたテロップが重なった。
かの、NHKがですよ。
勝海舟はワシントンには行ってないんですよ。当然この写真には写ってないでも、間違った。
誰も気づかないで放送してしまった。何でですかね。
今回、この『咸臨丸の夢』という文章を書くにあたって、色々と調べてみると、この類の間違いがいかに多いかに驚かされたんです。
・咸臨丸は日米修好通商条約の批准のために、太平洋を初めて横断しアメリカに渡った幕府の軍艦である
・勝海舟が咸臨丸に乗って日米の条約を締結してきた
・福沢諭吉は通商条約の遣米使節団にも加わった
歴史の事実がこんな風に当たり前みたいに間違っている。歴史といっても遣隋使や遣唐使の話ではなく、ついこの間の話。
その子孫の方にたどり着くことが難しくない、たったこれだけの時間の中で何故、こんなにも間違った歴史になってしまったのか。
小生の記憶も多分、何処かで、間違った記述を読んで頭に入れてしまったんだと思います。
◎間違った歴史の元凶は教科書にあった
どうもこの辺りは、学校教育の教科書にあったらしく大正7年の修身の教科書に勝海舟と咸臨丸の話がかなり誇張された話として掲載し、その内容が勝海舟と日米修好条約の遣米使節団と咸臨丸を結び付け日本人初の太平洋横断の快挙を成し遂げたという、話に仕立て上げ、勝海舟を褒めたたえたというのが、誤解を生む話の発端らしいんです。
修身とはいわゆる道徳教育であり戦前の国家主義教育の中核をなすものであって教育勅語と並び国民教育の基本とされたものなんです。
つまり、勝海舟という人は苦労して勉学に励み、後世に語り継がれる立派な人になり、咸臨丸を指揮して日本人初の太平洋横断に挑戦した勇気ある人なんです。
と当時の子供。たちに勉強の大切さと勇気をもって行動することを勝海舟を通して教えたかったみたいですね。
忠義を讃えた『忠犬ハチ公』の話と同じ構図ですね。
なぜ、勝海舟なのか、なぜ、福沢諭吉や木村摂津守ではないのか
たぶん、福沢さんや木村さんは生まれが良すぎたんでしょうね。
勝さんは貧乏旗本の家に生まれ、養子に出された人ですから、話としては共感が得られたんでしょう。
ただ困るのは、この修身の話が、戦後の歴史の教科書に引き継がれた形となり修好通商条約と咸臨丸と勝海舟の話がごっちゃになってしまって、誤解を生む素になったんですね。
歴史はその事実を明確に伝えるというのが基本で、見方によってその解釈が変わることはあっても、無かったことをまるで有ったかのように事実を変えてしまっては歴史じゃなくなりますからねえ。
教育の問題が後々まで尾を引くことになってしまって残念としか言いようがないです。
◎咸臨丸よ!
咸臨丸はオランダでヤーパン号として生まれ、多くの期待を背負って日本にやってきて咸臨丸となり、日本海軍の創設のために練習船として懸命に働き、冬の太平洋の荒海を乗り越えアメリカまで渡り、スポットライトが当たって、かの地では一躍脚光を浴びたが、その後は日本の政変に巻き込まれ、息も絶え絶えになりながらも働き、北の海で座礁したのを最後に歴史から消えてしまった。
彼女はカッテンディーケと共にはるか極東の国、日本に想いをめぐらせてやって来た。その夢はその生涯を通じて、何度も揺らいだ事だろう、最後はどんな夢を見ながら消えていったのだろうか。
◎あとがきにあたって
咸臨丸の模型を製作するにあたって、その船のことを知りたいとの思いで、調べてみようと思ったのが当初の思いでしたが、一隻の船に絡む歴史の重厚さに圧倒されながらも、自己満足ではありますが一つにまとめる事が出来ました。
最後まで、読んでいただいた方にお礼申し上げます。
なるべく平易な言葉でわかりやすくを心掛けたつもりでしたが、その分軽薄な文章表現になったところも多々あり、その点は素人が書いたものとして大目に見ていただければと思います。
また、この連載を通じて素敵なイラストを提供して頂いた細川様、本会の会員でも無く、会員の知人と言うだけで引きずり込まれ、最後までお付き合いいただき おかげで、つまらぬ文章でも楽しいコラムとして連載できました事、この紙面をお借りしてお礼申し上げます。本当にありがとうございました。
さあ、これから『咸臨丸』の制作だ!
彼女の夢に想いを馳せながら、立派な船になるように頑張ろう。
2020年8月吉日
出典元
船の科学館 資料ガイド7『咸臨丸』、 ガイド4『黒船来航』発行:㈶日本海事科学振興財団 船の科学館
幕末の蒸気船物語 著者:元綱 数道 発行:㈱成山堂書店
咸臨丸大海をゆく 著者:橋本 進 発行:海文堂出版㈱
海軍創設史 著者:篠原 宏 発行:㈱リブロポート
ペリー艦隊大航海記 著者:大江 志乃夫 発行:立風書房
長崎海軍伝習所 著者:藤井 哲博 発行:中公新書
咸臨丸 栄光と悲劇の5000日 著者:合田一道 発行:北海道新聞社
咸臨丸難航図を描いた幕府海軍士官 著者:粟宮一樹 発行:㈱文芸社
幕末軍艦咸臨丸 著者:文倉平次郎 発行:巌松堂
拙者は食えん! サムライ洋食事始 著者:熊田 忠雄 発行:㈱新潮社
週刊マンガ日本史34 勝海舟 咸臨丸、太平洋を渡る 著者:安彦 良和 発行:朝日新聞出版
明治維新の正体 著者:鈴木壮一 発行:㈱毎日ワンズ
週刊ビジュアル日本の歴史【49 黒船来航】【50 徳川幕府の衰退】 発行:㈱ディアゴスティーニ・ジャパン
【TV番組】
NHK地デジ番組 歴史秘話ヒストリア『日本人ペリーと闘う・165年前の日米交渉』 2019年5月22日放送
【WEB.SITE】
・木古内観光協会HP
・WEB 歴史街道 万延元年遣米使節団〜アメリカ人を驚かせたサムライ達
・咸臨丸神話
・咸臨丸病の日本人
・Wikipedia 『万延元年遣米使節』 『ヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケ』