◎北海道開拓使の最後の仕事
明治2年、戊辰戦争も終焉を迎え、明治政府は北海道開拓を推進する目的で北海道開拓使という官庁を設置し、移民政策を進めます。
咸臨丸はそのための人と物資の輸送船としての任務に就きます。
咸臨丸の最後の仕事も旧仙台藩の片倉一族を輸送する仕事。
戊辰戦争で敗れた藩士は蝦夷の地に新天地を求めるしかなかったのです。
投稿 米川
◎函館からの最後の航海
旧暦の9月20日(新暦の11月2日)午後1時頃、401名を乗せ、函館を出帆、天候は穏やかで特に何の心配もなく順調な航海が始まった。
ところが釜谷に差し掛かったころ、突然、突風が吹き始める。
潮の流れも速く、強い南風が吹き荒れアメリカ人の船長(政府が船長として雇った)や乗客にも不安がよぎる。
一部の帆を降ろすが既に船の自由はなかったとある。猛烈な嵐の中、しかも日も落ちて真っ暗の海上を進む咸臨丸。
6時頃にサラキ岬に差し掛かったころには、岬寄りに流されてゆく、このままでは陸地に激突してしまう。
『錨を投げろ!』突然荒々しい声が聞こえ、アンカーロープが切られ錨が次々投げ込まれる。
全く自由の利かなくなった咸臨丸はサラキ岬から突き出た岩礁に乗り上げて、船底が割れて海水がどっと入り込んできた。
船体は大きく傾き、船内は大混乱になり、もう手の施しようがない。この騒ぎは約200m離れた陸地からも望見され、集落の人々が提灯を振って集まってきた。
一人の人間が咸臨丸から飛び込み岸まで泳いで救助を求めた。
松明を掲げた助け舟が咸臨丸に近づき暗闇の海上を何度も往復して救助し、全員無事に上陸が果たせたころには、21日の明け方であった。
その後、咸臨丸の離礁作業は函館支庁の命で行われたが、容易にはかどらず、24日にも激しい風雨が襲って、25日未明に船体が沖に引きずられるように海中に没した。
これが、咸臨丸の最後だという この話が定説となって、今日まで伝えられ、一応、公式的には多くの書物に 咸臨丸は津軽海峡のサラキ岬沖で沈没したと言う事になっている。
なっているというのは不思議な事にこの沈没を見た人は一人もなく、また出来事として、新聞や瓦版にも何の記録も残ってないんですね。
残っているのは、開拓使の函館支庁の杉浦誠という権判官が本庁へ報告した『咸臨丸事故届け出書』だけみたいです。
でもこのようにその時の状況がかなり詳しく『開拓使公文録』『白石ものがたり』『木古内町史』に、それぞれ記載されているのも不思議な事ですよね。
◎つじつまの合わぬ記述
ノンフィクション作家で『咸臨丸の栄光と悲劇の5000日』の著者、合田一道氏はこれらの記述に疑問を呈する。
報告書を書いた杉浦誠氏の日記に注目、この人は毎日の出来事を克明に記録して毎日の天候も必ず記載し、日記として残している。
この19日、20日の天候はどうなのか。調べてみると不思議な事に、この両日の天候の記載がない。その前も、後の日も記載されているのに、この日だけ何故か。
そして、本庁への報告書には『19日小樽へ向け出帆』と記されているのに、日記には『20日午前8時出帆』となっている。函館を出た日が違っているではないか。
そして、不思議な事に、その後の28日の日記にはこう記述している『咸臨丸の離礁のための手配をしているが、まだ行き届かず、船具等の陸揚げの申し出を受けている』と25日未明に海中に没したとある咸臨丸が28日の段階でまだ、離礁できずにそのまま海上に身をさらしていると書いているのです。
日記の類は人に見せるためのものでもなく、そんなところに嘘を書く必要がない、とすると、咸臨丸は25日には沈んでない事になる。
そしてもう一つ、合田氏は『伊達藩士と北海道開拓』(札幌宮城県人会刊)という小冊子に次の記述を見つける。
座礁した咸臨丸から助け出された乗客は陸路を函館まで徒歩で戻る事になるのであるが、その時の様子をこの小冊子にはこう記しているのです。
『一同は陸路を函館へ戻った。
酒に酔い進路を誤った赤毛蒼眼の船長もその中にいた、白い猫を抱いた船長はかつて福沢諭吉をアメリカに運んだ由緒ある咸臨丸をこの北の海に沈めたのである』とこのアメリカ人士官の船長は酒に酔いながら操船していたと云うのである。
何やら、この突然の嵐に出会い、不運にも沈没したという話、どうも胡散臭い匂いがしてきますね。
この文章を書いている小生もどうも理解しがたい記述があるのですが①なぜ小樽に向けて航行するのに、わざわざ危険な夜をめがけて出帆するのか
②午後一時に函館出帆、サラキ岬で夕方六時、函館からサラキ岬まで直線距離で20Km程度、5ノットで進んで2時間ちょっと、距離感が合わない
③操船不能なほどの大嵐の中で、どうして錨を投げるのか。アンカーロープに引っ張られ、あらぬ方向に船は回転し、横波を受けて転覆してしまうではないか。
そんな無謀な事をする筈が無い。
④船の自由も利かない暴風雨の中、咸臨丸から飛び込んで岸まで泳ぎ救助を求めたとあるが、誰が考えてもその波の中を200mも泳げるとは思われない
⑤救援に来た村人が提灯を下げて?ましてやかがり火を焚いてとあるが、暴風雨の中、これは嘘としか思えない。
◎開拓使のデッチあげ説
つじつま合わせをすると、多分、こういう事ではなかったかと。
『咸臨丸は何の心配もない気象状況の中を函館から出帆した、風も波もほとんどない安心感から船長は飲酒しながら操船していた、鼻歌交じりの気分だったのだろう。
飲酒が手伝って安全確認を怠り、船があらぬ方向に進んでいるとも気が付かず、不意打ちを食らったように、突然、岩礁に乗り上げ、その時初めて我に返った。
幸い乗客には怪我人がおらず、岸から近かったので全員避難する事が出来た』この事故の報告義務を負う杉浦権判官は苦悩したんでしょう。
北海道開拓使が創設されてまだ2年、自分は函館支庁の責任者、船の運航に関する責任は函館支庁にある。
咸臨丸は民間の会社(木村万平商店)に運航管理をまかせていると云うものの政府の官船には違いない。その船が船長の酔っぱらいで座礁し、船体が大きく損傷し、航行不能となりましたとは、口が裂けても言えるものではない。
木村万平商店と函館支庁の関係者が苦悩の中で導き出したのが、『暴風雨で座礁その後、沈没した』という事にしてしまおうと口裏を合わせたのでしょう。
杉浦は日記に記載するのに、その日の天候が、暴風雨でもないのに、後ろめたさもあり、そうは書け無い。せめてもの無記載が、官吏としての正義感だったのでしょう。
この事故での犠牲者は一人も出なかったとの報告であるが実際には61歳の高橋なる人物が21日に亡くなっているのであるが、この事故との関連性は無いという解釈で咸臨丸事故届け出書には全員無事で『一人も怪我無し之候』となっている。
つまり咸臨丸は書類上、明治2年9月25日に海中に没し、この世から消えたことに成ってしまったんです。
◎何処へ行ってしまった咸臨丸
『幕末軍艦咸臨丸』という1938年出版の書物があり、著者は文倉平次郎氏あることがきっかけで咸臨丸について克明に調査され生涯にこの書物一冊だけ上梓された方。
その本の最後にこういう記述がある。
『その後咸臨丸は引き下ろされ函館にて大修繕が加えられ、一年近くも掛かった』『明治5年開拓使は英国の蒸気船を購入した。
その後、咸臨丸の取り扱いは回漕会社に命じたので開拓使の手を離れ私立の回漕会社の手に保管された』と。
『その後はどうなったかは分からないが、どこかの時点で咸臨丸はその生涯を終え廃船になったものではないかと思う』と合田さんもそう結んでおられる。
幕末の日本史の中で燦然と輝く咸臨丸もその最後は誰に関心を持たれることも無く、何一つ残すこともなく廃船として処分されたのかと思うと、寂しいですね。
今となっては、確認のしようもなく、真実はわからずじまいで終わってしまう訳ですが。
実際沈没してなくて、その後も生かされていたのなら、世間に内緒で生きていた事になるので、当然何の記録もなく、最後の解体時も後世に残すものは、写真すら残すことができなかったんでしょう。
そのあたりが悔やまれますね。
出典元
咸臨丸 栄光と悲劇の5000日 著者:合田一道
発行:北海道新聞社
咸臨丸難航図を描いた幕府海軍士官 著者:粟宮一樹
発行:㈱文芸社
幕末軍艦咸臨丸 著者:文倉平次郎 発行:巌松堂
幕末の蒸気軍艦 咸臨丸 船の科学館 資料ガイド7
発行:船の科学館
木古内観光協会HP www.town.kikonai.hokkaido.jp/tourism/