◎周辺緊急事態に駆り出される
咸臨丸が太平洋を横断し、帰国した当時の情勢は、外国人排除の攘夷思想やら、密かな討幕運動やらで国内は混沌とし、日本の周りには外国の軍艦がうろうろとうろつきまわり誠に物騒で、一触即発が何時でも、何処でも起こりそうな政情不安な社会だったんでね。
幕府の軍艦である咸臨丸も事あるごとに駆り出されていたんです。
投稿 米川
1861年3月には対馬事件が発生し、長崎の対馬に派遣。
対馬事件とはロシアの軍艦が対馬を勝手に占拠し、兵舎、練兵所などを建設し挙句の果てに島人を殺害し、実効支配をしようとした事件で、咸臨丸は約一か月その交渉に派遣。
ただ、この時は交渉は実らず、のちにイギリス海軍の力を借りて解決したという事件。
次は小笠原の領有権問題
これはイギリスが日本への打診もなしに勝手にイギリス出版の万国地図に小笠原諸島はイギリス領であると記載されていた事件で、これも放っておけないと幕府は咸臨丸をその調査に行かせて、各国に日本のものであると通告しこれは解決したんですが、この航海の時に機関が故障し大変苦労して帰ってきたようです。
もうこの頃から機関の故障が目立って多くなりますね。
欧州の列強は隙あらばと日本を狙っていた時代で、日本も海軍力を高めるためオランダに留学生を派遣します。その時、咸臨丸は、江戸から長崎まで留学生を送るという仕事をしていますが、この時も機関が故障し、予想外に日数がかかっています。
この時、送った留学生の中に後に、幕府の海軍副総裁になる榎本釜次郎(のちに武揚たけあきに改名)が含まれています。
日本の沿岸では外交問題にまで発展する事件が頻発するようになります。
長州藩がアメリカ、フランス、オランダの艦船に無通告で発砲し、報復として三国の連合艦隊に関門海峡で長州藩の砲台が攻撃されるという事件があったり、武蔵の国の生麦村でイギリス人が殺傷された生麦事件に端を発し、鹿児島湾でイギリス海軍と薩摩藩が激突するという薩英戦争があったりと、先の見えない暗雲が立ち込める世の中へと引きずられていくんです。
◎咸臨丸の軍艦籍、はく奪
そんな中、咸臨丸は度重なる機関の故障のため、1866年、浦賀で修理のため係留中にボイラーの交換を幕府に申し出たんですが、当時の幕府は財政も苦しくお金は出せないとのことで、機関は外し、帆走軍艦として扱われることになったのですが、翌年67年には軍艦籍からも外され、ただの輸送船になってしまって大砲も外されてしまったんですね。もう海軍には不用な船となったんです。
◎榎本艦隊に引きずり込まれる
1868年、幕府の存続を賭けた戊辰戦争が勃発します。
初戦の鳥羽伏見の戦いでは薩長同盟軍(官軍)の勝利に終わり、この時、幕府所有の8隻の軍艦のうち4隻を官軍に引き渡すということで決着し、幕府の残る4隻を率いていたのがオランダ留学から帰国していた榎本武揚海軍副総裁。
新政府軍との内戦は江戸城明け渡し後も奥羽越に飛火し、各地で激戦が繰り広げられた。
この時、既に機関も大砲も外された咸臨丸は輸送船として駆り出され、、負傷者の輸送を任務に充てられた。
そのためその船内は血なまぐさい臭気であふれたとされています。
8月に入って、各地での敗戦が伝えられ幕府の敗戦色が強くなった時、榎本は4隻の軍艦と咸臨丸含む4隻の輸送船で徳川の幕臣2500名を率いて江戸からの脱走を試みます。
もう、ズタズタになった咸臨丸なのですが、まだ戦に引きずられて行くんです。
目的地は蝦夷の地、北海道。
榎本は幕府が倒れた後、旧幕臣達の生きるすべを確保するため、蝦夷地を開拓し新国家を建設するつもりだったんです。
8月19日の真夜中、咸臨丸は軍艦回天丸に曳航され、途中の集結地である仙台湾を目指し品川を出帆します。
◎嵐の中をさまよう咸臨丸
咸臨丸は引き綱で回天丸に結ばれ、離れないように出帆したんですが朝方、4時ごろ、観音崎に差し掛かった時、突然、咸臨丸が暗礁に乗り上げ、動けなくなったんです。
回天丸が何度も離礁を試みてくれたおかげで、なんとか離れることは出来たのですが、他の船に大きく引き離され、その後、大嵐に見舞われ、ついに、回天丸と結ばれていた綱が引きちぎれたんです。
機関を搭載していない咸臨丸は荒れ狂う海上をさまよい、転覆の恐れが出てきたため、船の安定を図るため止む無く、3本マストの最も大きいマストを切り倒したとありますが、まさかメインマストをのこぎりで切り倒したと言う事なんでしょうか?
このまま進むことは到底できず、進路を大きく変え清水港を目指します。
清水港は駿府藩として江戸城、明渡しに応じた徳川が駿府で70万石として御家存続が決まったところ。徳川を頼っての行動だったんでしょう。
もし、新政府軍にでも見つかれば、賊軍として処刑は確実だったんですね。
清水港を目指しますが、激風に翻弄され、ままならず、2本マストになった咸臨丸は命辛々、伊豆の下田港にたどり着いたとあります。
その後、咸臨丸の後を追ってきた蟠竜丸に曳航されて清水港に入ります。
駿府藩の徳川にとっては、もはや安寧の地を得たところという心境、そこに脱走してきた船をかくまって受け入れる訳にはいかない。2隻とも艦船は朝廷に献納し謹慎せよと命じた。
蟠竜丸はその勧告を拒否して単独で清水港を出港して逃げます。
◎壮絶なる砲撃をうける咸臨丸
9月18日、突如新政府軍の富士山丸、飛竜丸、武蔵丸、の3隻の軍艦が清水港に入港してきた。
情報をキャッチして咸臨丸を追ってきたんです。
先頭の富士山丸が停泊中の咸臨丸に接近し、いきなり大砲を発射。飛竜、武蔵もそれに加わる。
その時、咸臨丸に乗船していたのは60人余り、修理中の咸臨丸は銃器類を全て陸揚げし丸腰の状態、乗組員は白布を振って『撃つな!撃つな!』と叫び、戦う意思のないことを告げますが、発砲は止まず。
富士山丸の兵士たちが発砲しながら咸臨丸に乗り込こんだ。
刀を抜いて応戦した咸臨丸の乗組員もいたようですが圧倒的な銃器の差で戦いは一方的で甲板は血みどろに化した。
駿府藩の徳川を訪ねていた艦長の小林は襲撃の一報を受け、急ぎ艦に戻り甲板に駆け上がって『艦長の小林紋次郎である!』と名乗ったのであるがすぐに捕らえられ縄で縛りつけられ、殴る蹴るの暴行を加えられ、意識を失って生け捕りにされた。
甲板に転がっている死体は新政府軍兵士によって片っ端から海に放り投げられた。
咸臨丸は拿捕され、富士山丸に曳航され立ち去った。
修理中の咸臨丸はこの襲撃でまたもや傷つき、哀れな姿となって捕らえられたんです。
この時より,咸臨丸は新政府軍の所有となったんです。
海面には凄惨な屍が累々と浮かび、三日経っても放置されたままで、異臭を放ちだした。新政府軍を恐れて誰も手出しができない状態だったといいます。
このまま、捨ててはおけぬと乗り出したのが、清水港を縄張りに持つ、清水の次郎長であったと言われています。
清水の向島の中州に丁寧に埋蔵してあげたとあります。
歴史的な快挙を成し遂げた咸臨丸の雄姿は見る影もなく、戦に翻弄され満身創痍で捕らわれの身となってしまったんですね。
出典元
咸臨丸 栄光と悲劇の5000日 著者:合田一道 発行:北海道新聞社
咸臨丸難航図を描いた幕府海軍士官 著者:粟宮一樹 発行:㈱文芸社
明治維新の正体 著者:鈴木壮一 発行:㈱毎日ワンズ