◎咸臨丸の修理費
咸臨丸の修理の完了も間近くなって木村さんから修理費の支払いについて請求を申し入れたのに対し、カニンガム長官から政府の命令でアメリカ側で全て負担するので、支払いはいらないと返事が来た。
それはそれは、そうですかと済む訳もなくそれは困ると何度も話をしたみたいですが頑なに謝絶されてしまいます。
投稿 米川
それはそれは、そうですかと済む訳もなくそれは困ると何度も話をしたみたいですが頑なに謝絶されてしまいます。
困った木村さんは、それなら、工事に尽力してくれた人達にお礼をしたいと申し出たのですが、これも固辞されてしまう。
困り果てて、修理のことではいつも相談にのってくれていた工事責任者のマクディガルさんに相談し、サンフランシスコ市に寄付をさせてもらうという話で落ち着いたという。
その額2万5000ドル。
この2万5000ドルという額は、請求がなかったものですから、実際の金額はどの程度のものであったのかは解らず、日本側の見立てた金額なのですね。
それにしても、アメリカ政府も全ての費用は日本に負担させないという、この太っ腹には驚嘆させられますね。
◎お世話になった方々とのお別れ
5週間がかりで艦の損傷箇所に手が加えられ、修理が完了し、咸臨丸の船員達も順次、宿舎を引き上げ咸臨丸に移動した。
メア・アイランドを去る前日、木村さんはこの地でお世話になった人々を招待しご婦人たちを予てから希望であった咸臨丸の見学会を開き、自由に見学してもらい夜は宿舎で送別の宴を張った。
招待客には事故後の不自由な体で無理を押して来てくれた、カニンガム長官とその家族、修理の責任者のマクディガルさんの家族、その他造船所の士官たちら大勢がご馳走とシャンパンで夜遅くまで楽しい会話ではあるが、別れを惜しんだ。
翌日、出港の日も木村さんはカニンガムさんの家を訪ね最後の別れを告げた別れる際は家族総出で門のところで、手を握り別れたとあります。
木村さんはこの時のことを、こう記している『惜別の情、恋々捨てがたく互いに衣を濡らし・・・』と想えば、サンフランシスコでこんなにも素晴らしい人々との出会いと経験があるとはそれこそ夢にも思わなかった木村さんら咸臨丸の乗組員にとっては、その別れは暖かく接して貰ったが故に涙、涙の別れであったであろうと思われますね。
◎さようならメア・アイランド、さようならサンフランシスコ
午前10時、錨を揚げて、思い出多いメア・アイランドの岸壁を離れる。
造船所の人々が妻子に至るまで見送りに来てくれて白いハンカチを手に持ち高く揚げて振りかざし、別れを惜しんでくれた。
船はサンフランシスコに一旦寄港し、ここでも乗組員を快く迎えてくれた市長さんを始めとするお世話になった方々への挨拶も済ませた。
想い出をいっぱいに刻んで3月19日、咸臨丸はサンフランシスコからハワイに向け出帆した。
復路の航路はブルック大尉の立てた計画に基づいたものであったという。
サンフランシスコからホノルルまでは南に流れるカルフォルニア海流に乗って一旦南下し北緯20度から30度付近で北東貿易風と常に西に流れる北赤道海流を捉えて西進しホノルルへ、その後は東経160度付近から針路を北に取りながら日本に向かい、八丈島付近からは日本海流に留意しながら浦賀に向かうという航路。
復路は往路とは打って変わって海は静かで咸臨丸は満帆でホノルルに向かって走った。指揮をとったのはブルックさんから一番信頼の高かった浜口さんと小野さんであったであろうと、言われている。
勝さんは病気は治っていたであろうから指揮をとった筈であるが、そこのところの記述は残ってないという。
4月4日、無事ホノルルに入港
物資の積み込みに寄港しただけなので、翌日には水、食料、石炭等の積み込みは終えた。
国王との面会は極めて簡素に終わり『若い土人の種では有るが、礼儀にかなった容姿であり、自分を上座に導いてくれた』との僅かな記述があるだけで、王宮の建物や興味を惹かれたことは何も書かれていない。
7日、ホノルルの寄港も短期に終わり、日本に向けて出帆。
その後の航海も順風満帆で進み、往路とは全く異なる航海ではあったが、反対に全く風の吹かない海域があり、帆船には難所となる。
咸臨丸は蒸気機関搭載でそれを動かすことになるのであるが、なにしろ暑い海域で気温は30度を超える中で石炭を炊くというのは、その機関室は灼熱地獄となり
火焚たちも大変で、甲板に上がる鉄の梯子が熱くて手で触れないほどになるという少々、熱くとも、苦しくとも台風が発生する前に日本に向かわねばとの思いで船を北に進める。
日本に近づくと黒潮に阻まれ約1日分ロスしたと書いている。
5月5日早朝、天気荒れ模様の中、深い霧の向こうに陸地らしき物が見える。
その地点こそ房州の州崎であることが判り、乗組員一同、歓喜が全身を駆け巡ったとある。
朝10時前、船は浦賀港に入港、無事に帰国でき教授方以下、士官、水夫、火焚に至るまで乗組員たちは誰かれとなく抱き合って喜んだ。
その時、思いがけないことが起こった。
突然、浦賀奉行所の役人が物々しく船内に乗り込ん出来て『水戸人はいないか?』と鋭い剣幕で詰問してきた。
去る、3月に井伊大老が水戸の藩士に討たれ、暗殺されたらしく、取り調べるという。
乗組員らは驚きで顔をひきつらせたという。
勝さんがすかさず、冷やかし気味に『アメリカに行った者の中には、水戸人はいねぇよ、すぐけぇれ』とべらんめえ口調でまくし立てると、役人たちはド肝を抜かれて取り調べもせず、帰っていったとあります。
アメリカへ行っている間に、世の中が大きく変わって行った事を肌で感じた出来事ですね。
正午に浦賀港を出港し、4時過ぎに横浜沖に投錨。
1月19日に浦賀を出港してから140日余り、未知の太平洋を往復横断し、アメリカの地を踏み、交流を重ね、多くの経験をし、視野を広めた。
近代日本の黎明期にふさわしい事業を完遂して日本に帰ってきた。
ただ、寂しいのは、サンフランシスコでは入港時も現地でも、また別れ際も大勢の人に出迎えや見送りがあったのに、日本では出港時も帰国の入港時も誰も見送らず、誰も出迎えず、淡々と過ぎているんですね。
咸臨丸の乗組員に対しては遣米使節団の一行の帰国を待って、その時の暮、12月に幕府から褒賞が出されている。
木村摂津守 金十枚 時服三
勝 麟太郎 金五枚 時服三
小野友五郎 銀五十枚 時服二 と続く
金一枚は大判一枚の意味で小判にして十枚、即ち十両に相当。
時服とは綿入りの小袖であったようです。
咸臨丸という軍艦の生涯のハイライトとも言うべき太平洋横断はこうして無事に成功裏に終わり、日本の歴史に語り継がれることになったのですね。
蛇足になりますが、旧暦では1か月は29日と30日の大小の月で、1年はその12か月でしたので354日となり、陽暦の365日とズレが生じ、そのままですと季節が大きくズレてしまいますので約3年に一度、同じ月を2回繰り返し、1年を13か月とした年を設けました。
繰返した月を閏月と呼び、この万延元年という年は3月の次に閏3月が来て、3月が2か月間あるんです。
したがって咸臨丸の修理が始まったのが3月4日、修理が完了したのが3月9日でこの間、5週間かかったとあるのはそのためなんですね、ややこしいですね。
出典元
咸臨丸海を渡る 著者:土井良三 発行:㈱未來社
咸臨丸 栄光と悲劇の5000日 著者:合田一道 発行:北海道新聞社
咸臨丸、大海をゆく 著者:橋本 進 発行:海文堂出版㈱
咸臨丸難航図を描いた幕府海軍士官 著者:粟宮一樹 発行:㈱文芸社