◎異国の地で再会を喜ぶ
咸臨丸の修理が軌道に乗り出した頃 遣米使節団の正使たちを乗せたポーハタン号がサンフランシスコに入港してきた。
途中ハワイに寄って来たので少し遅れての到着となった。
ポーハタン号の日本人達は咸臨丸は居ないかと日の丸を探し、メア・アイランドに居ると聞いて、そこへ船を進めた。
投稿 米川
メア・アイランドにはサンフランシスコより電信ケーブルを通じて連絡が入り木村さん以下咸臨丸一同が迎えに出た。
ポーハタン号は警備船インディペンデンス号の祝砲17発で迎えられ、異国の地で双方の日本人が懐かしき再会を果たした。
お互いに苦労して太平洋を渡ってきたので話は尽きず、感慨もひとしおのようだったみたいです。
その後、すぐにサンフランシスコ市長とヘイブン将軍が現れて、使節団一行の
歓迎会を明日するので木村摂津守も出席されるようにと、わざわざ誘いに来てくれたのです。またまた歓迎会、みんな好きなんですね、お金もいるというのに。
◎カニンガム長官負傷事件と歓迎会
翌日、サンフランシスコで行われる歓迎会のためポーハタンの使節団一行と木村さん、ブルックさんは迎えの船に乗って向かった。
その時、停泊していたポーハタン号より祝砲が一発打たれた。それが運の悪い事にたまたま陸地を歩いていたカニンガム長官をかすったのです。
左額半面血に染まり、服の肩の部分は破れ、ひどい怪我をして倒れたという数人のものが長官をかかえて、とりあえず家まで急いだという。
既に出発していた日本人らはそのことを知らず、歓迎会場に着いてからその事を聞いた木村さんは、急いでメア・アイランドまで引き返したという。
そのため、木村さんは歓迎会に出られず、急遽勝さんが代わりに出席したという。
◎歓迎会は盛り上がったが・・・
今度の歓迎会は音楽ホールを借りて行こなわれた。
前回と同じく両国元首の健康を祝しての乾杯に始まり、遣米使節団の新見正使村垣副使らの紹介でスピーチが始まり、彼らの気品ある振る舞い、優雅な態度それに綺麗な装束に感心する話で始まったのは良かったのですが途中からスピーチの内容が今後のサンフランシスコの夢みたいな話が始まると次から次とこの港街がどんなに発展するかで大いに盛り上がり、街の自画自賛で沸き立つのです。
と言うのは、この当時のサンフランシスコの時代背景に関係するんですがこの歓迎会の十年ほど前にアメリカはカルフォルニアをメキシコから手に入れて州政府を設立しているんです。
この事はアメリカが太平洋を手に入れたということになるんですね。
つまりアメリカから見れば、アジアや日本という国は大西洋からアフリカをまわり、インド洋、東シナ海をへて、たどり着く地球の東の果て。
その地の果ての国が太平洋を手に入れたことで、海を隔てた隣の国へと一気に状況が変わったんです。
それとほぼ同時期に、カルフォルニアのゴールドラッシュが起こります。
砂金が採れるというので一攫千金を狙う者たちが、サンフランシスコ近郊に押し寄せ人口が増大したこと。
また、アメリカ大陸横断鉄道の工事が進んでおり、それが開通すれば人や物の流れが大きく変わる。
アジアの国々から船で物資が行き来し、大きな商売となり、それが鉄道で全米各地に供給出来、まさに今後のビッグビジネスの玄関基地として輝かしい未来が待っているサンフランシスコ。
丁度そこに、今日本から通商条約を締結したいとやって来ている。これほど めでたい事が他にあろうかと言うことなんですね。
だから、こんなにも歓迎し、沸き立つそれはそうなんですが、そんな延々続くスピーチを聞いている日本人は何も解らぬ正直言って、もううんざりという気分なんです。
目の前の料理は口に合うものは殆ど無く、分からん話に拍手や愛想笑いをせにゃならんし、いつまで続くのかと思っているんですね。
係の者に『もうそろそろ、お開きにさせて頂きたいのですが』と言ったかどうかそれらしきことをお願いして、最後に市長のブルックさんを称えるスピーチがありそれに答えてブルックさんから話をされた
その中で本来参加するはずの木村摂津守はカニンガム長官が事故で倒れられたため、急遽メア・アイランドに引き返し、長官のそばについていると事故の経緯を話をされると、会場が拍手喝采でどっと湧き立ったらしいです。
◎ポーハタン号の出港とブルックさんとの別れ
歓迎会の翌日、3月16日、ポーハタン号は石炭の積載に寄港しただけなので早々にワシントンに行くためにパナマに向かった同じ日。
ブルックさんは別の船で同じくパナマ経由でワシントンへ帰郷するためサンフランシスコを離れた。
ブルックさんにとっては咸臨丸の修理も軌道に乗ったことを見届け、自分の仕事の一区切りがついたと言うことなのでしょう。
勝さんからの電信でメア・アイランドから咸臨丸の士官たちがサンフランシスコに呼び寄せられ、ブルックさんを船の中まで見送り、全員で万歳三唱したとあります
ブルックさんにどれだけお世話になった事か、士官たちの惜別の念は計り知れ無いほど深いものだったのでしょうね。
◎ポーハタン号の旅路
折角なので、ポーハタンに乗った遣米使節団のその後の旅はどうだったのかに少し
触れておくと
ワシントンに行くには、当時はパナマ迄行き、陸路を大西洋側まで移動するという
手段しかなかったのです。
ポーハタン号でパナマまで18日間の船旅、陸路はアメリカが敷いた鉄道で移動。
初めて蒸気機関車に乗りその速さに度肝を抜かれたとあります。
途中の駅で昼ごはんをとり、約3時間の列車の旅を楽しんで、大西洋側の港町に到着。
その港町に待っていたアメリカ海軍のロアノーク号(3400トン)に乗船し、ワシントンを目指す。
ニューヨーク近郊でアメリカ政府の送迎船フィラデルフィア号に乗り移りワシントンにようやく到着となる。
サンフランシスコから38日間かかっているんです。
ワシントンには25日間滞在し、その間にブキャナン大統領に謁見し、最大の任務である通商条約の批准書の交換をめでたく終えた。
その後は連日忙しく博物館、国会議事堂、海軍工廠、造船所、海軍天文台等を見学日本の新しい国造りについての勉強を精力的に行っているんですね。
それらの合間を縫って通貨の交換比率の交渉も複数回行い、ワシントンでの任務を終え、フィラデルフィアで6日間滞在し造幣局を見学し、ニューヨークに移動。
彼ら一行も、観るもの、聞くもの、その技術力の高さに衝撃を受けたという。
使節団の監査役である小栗備後守忠順(おぐりびんごのかみただまさ)はこう残しています。
『何もかもすばらしい。我が日本もこうでなくてはならぬ。
攘夷などとは馬鹿馬鹿しいそんなことをしていたら、各国の餌食となりやがては分割されて植民地になるのがおちだろう』と、そして今見てきた科学の進歩を日本にも取り入れ世界と対抗できる力を養わねば、そしてそれを自分がやらずに誰がやるというのだ。
と誠に力強いと言うか、興奮するほどの衝撃を受けているんですね。
一方でアメリカ人をびっくりさせたのは通貨交渉の際に日本から持参した天秤ばかりと算盤だったといいます。
一分の狂いもない精密な天秤ばかりと彼らが必死で通貨の計算に精を出しているときに、一瞬で計算してしまう算盤という物、その正確無比な答えに向こうの技師たちは仰天したといいます。
ニューヨークではブロードウェイを馬車で行進し、そのパレードを観るのに50万人もの人が集まり大歓迎、どこへ行ってもすごい歓迎ぶりですね。
ニューヨークでは13日間滞在し、一連の滞在を終え帰国の途に就きます
帰りはナイアガラ号(5540トン)に乗船し、大西洋を横断し、アフリカ大陸の西側を南下、喜望峰を回って、インド洋に出て、インドネシアのバタビア、香港を経由し9月27日に品川に帰着。
1月の22日に横浜を出港して実に8ヶ月強に渡る、世界一周の大事業だったのです。
出典元
咸臨丸海を渡る 著者:土井良三 発行:㈱未來社
咸臨丸、大海をゆく 著者:橋本 進 発行:海文堂出版㈱
咸臨丸難航図を描いた幕府海軍士官 著者:粟宮一樹 発行:㈱文芸社
拙者は食えん!サムライ洋食事始め 著者:熊田忠雄 発行:㈱新潮社
WEB 歴史街道 万延元年遣米使節団 〜 アメリカ人を驚かせたサムライ達
https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/4681