【コラム】咸臨丸の夢 ⑱    お祭り騒ぎの大歓迎

◎ サンフランシスコ市揚げての大歓迎

yone コラム#18-5咸臨丸はサンフランシスコ湾内のレレヨマチという海岸に午後1時投錨した。

早速ブルックさんと数名が着船と入国の手続きに役所に出向いた。

翌日、港の岸壁は見物人でごった返していた。日本の軍艦がやってきたのは開港以来というのでひと目日本の軍艦や日本人を見たい人でまるで蟻のように集まってきた。

投稿 米川

前日の届けを受けて、今度は市長が12人の区長を伴って訪ねてきた。

市長は来航を歓迎し、木村摂津守に対しホテルを用意したので上陸して休憩するようにと勧めてくれた。

まず、木村さん、勝さん、ブルックさんそれに教授方を連れて上陸した。

岸壁には既に何台もの馬車が用意されていた。2頭立ての馬車を観るのは初めてだった。

立派な造りの乗り物に気をとられながら、それぞれに分乗し街へ出かけた。

街中では道路沿いに両側、大勢の人が押しかけ、祭りのような賑わいだったという。

やがて馬車は4階建てのレンガ造りのインターナショナル・ホテルに着いた。

案内されて、その建物、調度品に肝をつぶしたが、一番驚いたのは、市長や区長たちと共に現れた美しく着飾った女性たち。芸者風には見えないので木村さんは恐る恐る尋ねると、いずれも市長や区長さんたちの奥様方で『貴賓を迎えるために来たのです』との事、はじめて西洋と東洋の思想の違いにふれて、息をのんだという。

yone コラム#18-1その日は市内の観光と、ディナーが用意され、帰りはわざわざ咸臨丸まで市長さん、区長さんが送ってくれた。

正式に招待された咸臨丸なら理解できるが、市長さんらはポーハタン号のことは連絡を受けていたが咸臨丸は役所への届けで、初めて知ったという。

木村さんも勝さんも、この歓迎ぶりに少々困惑しているようですね。

“なんでここまで”と。


福沢諭吉は自身の自伝のなかでこのように書いている『さあどうも、あっちの人の歓迎というものは、それはそれは実にいたれりつくせり、この上のしょうが無いと言うほどの歓迎。

アメリカ人の身になってみれば、アメリカ人が日本に来て初めて国を開いたというその日本人が、ペルリの日本行きより8年目に自分の国に航海して来たという訳であるから、丁度自分の学校から出た生徒が実業について自分と同じことをすると同様、オレがその端緒を開いたと言わぬばかりの心地であったに違いない。

ソコでもう日本人を掌(てのひら)の上に乗せて、不自由をさせぬように、不自由をさせぬようにとばかり、サンフランシスコに上陸するや否や、馬車をもって迎えに来て、とりあえず市中のホテルに休息というそのホテルには、市中の役人か何かは知りませぬが市中の重立った人が雲霞(うんか)のごとく出掛けて来た・・・』と続く

教育者らしい見方というか、“どうしてそこまで”の答えを探っている様子なんですね。


◎ 新聞社が押しかける

咸臨丸の日本人は観るもの全てが興味津々なのであるが、アメリカ人だって日本人を観る目は同じこと。

新聞社が放おって置くわけがなく、各社、咸臨丸に押しかけ連日、1面に特集記事が組まれるほど。

日本のサムライは何を着て、何を履いて、何を付けて、髪型はどうだとか、とにかく頭のテッペンから足の爪先まで舐め回すように観て、読者の好奇心を煽り立てる

特に最高位の木村摂津守に関しては白い足袋、草履、羽織、袴の生地、色彩、それを結ぶ紐が銀色の太い紐であったこと、その腰には大小の刀を帯びていたと、その刀の鍔、下げている印籠、根付、いずれも第一級の工芸品との見立て。

翌日の新聞には木村摂津守を評して『アダムラール(木村のこと)は頭上より足の指先に至るまで貴人の相貌(そうぼう)あり』と記されている。

当然、ブルックさんも記者から質問攻めに合い、インタビューに答えているがブルックさん、日本人の乗組員の悪口は一切言わないばかりか、航海技術に精通していると褒めちぎっているんです

木村さんは航海中は最初からブルックさんに対して感謝と尊敬の念を持ち続けており、一方ブルックさんは、当初は航海のことは何も知らない役人との観方をしていたが、途中からは木村さんの人間性に触れ、彼もまた木村さんを敬愛する仲になったと言われている。

この後、ブルックさんとの別れの際、木村さんは咸臨丸に積んであった千両箱をあけ、感謝の印としてどうか好きなだけ持って行って頂きたいとブルックさんに申し出たが、ブルックさん『私はあなた方のお手伝いをして日本と日本人をアメリカとアメリカ人に初めて紹介した名誉で充分です』とこれには応じず1両たりとも、手にしなかったとあります。

ブルック提督、生き様が素晴らしいとしか言いようがない。


◎ サンフランシスコ市 正式歓迎会

yone コラム#18-3旧暦の3月2日、サンフランシスコ市より正式歓迎会の申し入れがあった。式典は支庁にて。

当時のサンフランシスコには迎賓館なるものがなく急ごしらえで支庁内部に式典会場を設えたようです。

支庁では17発の祝砲で迎えられ、その祝砲で周りの建物の窓ガラスが皆割れるという、一幕もあったようで、先日に引き続き大変な歓迎ぶり。

会場のひな壇には市長を挟んで木村さん、勝さんが座り、場内のすべての人と握手で親交を深めた。

ここでも、日本人の絹の着物と日本刀に好奇心を持たれた様子。

式典の後、ジョブホテルに会場を移し、饗宴がなされた。

市長から乾杯があり『日本の皇帝とアメリカ大統領の健康のために』の言葉で一同乾杯。

その後、木村さんから万次郎に通訳してもらい『今、日本の皇帝のために乾杯をしていただいたが、その名前が大統領の前にあった、今度は大統領の名前を先に、アメリカ大統領と日本の皇帝のために乾杯して頂きたい』と再度、乾杯をお願いした。

会場は大歓声となり、和やかに乾杯が行われた。

この木村さんの機転、外交センスは一流のもの人として、相当優秀な人物だったんですね。


◎観るもの全て、驚嘆!

yone コラム#18-4上陸してから、市内の様子、歓迎会の会場等今まで観たことも無いようなものばかり、あまりの違いに、まるで竜宮城に行ったようだと形容する者までいたという。

彼らを驚かせたのは、街の様子で道の真中は馬車が勢いよく往来し、歩行者には歩道が設けられており、整然としている。

建物の窓にはガラスが嵌められている(当時の日本は障子が一般的)

yone コラム#18-2『ホテル』

床には絨毯が敷かれ、そこを靴のまま歩いているエントランスに入るとピアノなる楽器の演奏で出迎えてくれた。(多分、観たこともない楽器だったのでしょう)

部屋の明かりは光り輝き照らしている(当時でも市内はガスが供給され外灯や部屋の明かりはガス燈だったのです)宴会場にはシャンデリアなるものが吊り下げられ金色の金具で飾られ、7,8灯のガス灯がまばゆいばかりに輝いている。

(日本のあんどん、ローソクの灯りとは桁違いに明るく見えたんでしょうね)

『水道』

ホテルで蛇口をひねると、水が勢いよくほとばしり出てびっくりしている日本では井戸からくみ桶で汲み上げなければならないが、ひねるだけでジャーと出てくる、何という進歩した世の中だとびっくり ただ、当時はまだ、電気は供給しておらず、当然電動ポンプも無いので、どういう浄水システムで濾過し、配水方法やビルの高所に揚水するシステムはどうしていたのか、興味は尽きないですね。

夢にまで観たサンフランシスコはまさに夢のような社会、サムライ達は貪欲に見聞きし、脳裏に叩き込んで、新しい日本のために生かさねばと、それぞれの胸の内に、新しい日本の夢を重ねて描いていたんでしょう。


出典元

咸臨丸海を渡る   著者:土井良三  発行:㈱未來社

咸臨丸、大海をゆく 著者:橋本 進  発行:海文堂出版㈱

咸臨丸 栄光と悲劇の5000日      著者:合田一道   発行:北海道新聞社

咸臨丸難航図を描いた幕府海軍士官       著者:粟宮一樹   発行:㈱文芸社

拙者は食えん!サムライ洋食事始め   著者:熊田忠雄   発行:㈱新潮社