◎日付変更線も通過して
安政7年2月4日、経度180度の日付変更線を通過して、西経に入った。西側から変更線を越える移動をすると、1日マイナスとなり、翌日も4日にしなくてはならないが、日誌の日付はそのまま数えているため、以後の日誌の日付は1日進んだままとなっている。
投稿 米川
大嵐の中をかいくぐり、生涯経験することのない修羅場のような航海を体験してしまうと、咸臨丸は絶対に沈まないという確信が出来、全行程の半ばを過ぎたという安心感も生まれてきた。
元々、ポーハタンの伴走であった筈であるが、ポーハタン号の姿は見ることもなく水平線の果てまで咸臨丸以外は何も存在しないという世界が続く。
それでも、ある日は香港からサンフランシスコに向かうフローラ号という咸臨丸の倍ほどもある商船に出くわし、暫く並走し、ブルックさんとフローラ号の船長が互いにメガホンでやり取り会話を交わす、香港から中国人を300人輸送しているらしい互いに励ましあって分かれる。
アホウドリが咸臨丸を訪れてきて乗組員と楽しんだり、ある日は数多くのクジラが船の前をむれて、航海の邪魔をしたりと、いくつかの変化を楽しみながら進んだ。
◎ 飲料水事件
この先、航路をハワイに寄港するか、サンフランシスコへ直行するか判断する時期にかかった。
つまり、燃料の石炭と飲料水の残量に関わることになるのですが、その両方とも節約してきたこともあり、水は水桶を調べた結果、10基のタンクは使い果たしたが、まだ13基のタンクは未使用であり、また石炭もまだ余裕があるとの判断でハワイに寄らず、直行することになった。
(一方のポーハタン号は荒天時に外車を廻していたこともあり、ハワイに寄って石炭を補充している)ただ、そうは言っても、水の無駄遣いは厳禁で、無くなると皆の命に関わる事なので飲み水以外の水の使用はまかりならぬというお達しが出された。
ところがある日、アメリカの水兵がこの貴重な水を使って、自分の下着を洗濯していたんです。
それを見つけた吉岡勇平という人がいきなり、その水平の顔を足蹴にしたんです。
顔を蹴られた水兵は、何かわめきながら、仲間を呼びに行って、連れてきたかと思うと、吉岡に向かってピストルを構え、対する吉岡さんも刀の柄を握って、まさかの一触即発の騒ぎになったんです。
何事が始まったのかと日本の士官たち、勝さん万次郎さん、ブルックさんもびっくりしてやって来たんです。
事の次第を聴いたブルックさん、ガヤガヤと騒ぐ自分の部下を制して、静かに日本側に向かって『よろしい、斬ってください』と言ったということなんです。
共同生活の掟を破った者に対して、当然の処刑を求めたと言うことなんですが多分、ブルックさんも吉岡さんの人柄を見た上での言葉だったんでしょうね。
この一件は、勝さんとブルックさんの握手となって収まったということらしいですがそれ以来、日本人のブルックさんを観る目が変わったとあります。
当時の日本人に流れる武士道精神に通ずるものがあり、日本人を感激させ、福沢諭吉の日誌にも、大いに人を感激せしめたと書かれています。
かなりリアルな表現で書かれている事件ですが、アメリカの水兵はいつも自分の周りにピストルを所持していたという事になり、そんな荒くれの男たちにピストルを持たせていたのかという疑問と、吉岡さんが刀の柄に手をかけたというのは、これも船の上でも脇差を差していたのかという疑問が残りますが、どうなんでしょうね。
◎ いよいよ、サンフランシスコ近し
2月の17日と19日に咸臨丸はハリケーンに遭遇しているんですが、もう少々の時化には慣れていて、慌てた様子はないが、またもや船の中は水浸しなんです。
衣服も居間も濡れて乾かない、外は吹雪。相変わらずの劣悪の環境で水夫達は次々に病気にかかり、苦しんでいる。士官たちは彼らを激励するため薬酒を造り飲ませたり、時にはご褒美と称してお金を与えたりと、心を砕いている。
2月23日、 小野友五郎がマストに貼り紙をしてサンフランシスコが目前である事を全員に知らせた。
もうすぐアメリカに着くという喜びに船中が沸き立った。
25日にブルックさんと小野さんとの間で、いつサンフランシスコの山が見えるかという論争と言うか、賭けみたいなことをしているんです。
ブルックさんは明日26日の朝必ずサンフランシスコの山を見ることが出来ると言ったが、小野さんは明日の午後でないと無理ですと主張した。
こういう和やかな賭けが出来る雰囲気が船中に溢れていたんですね。
結果は、ブルックさんが勝って、26日の朝、アメリカ大陸の山が見えたんです。
小野さん負けたと言っても、彼の計測でわずか半日の誤差、思えば大した測量技術ですよね。
◎ 掲げる旗でまたまたトラブル
いよいよ入港の準備、サンフランシスコ入港に際し、掲げるべき旗について論議となる。
ひとつは国の識別、これは日米和親条約の時から船舶の国際的な識別として日の丸を使うことが決められていたので、日章旗には異論はなし。
メーンマストには幕府水軍の中黒長旗、これも異論なし問題はもう一つの、この船に座乗している最高位者の旗、つまり軍艦奉行の旗を掲げるべきなのだが、まだその時点で軍艦奉行の旗は制定されてない。
代わりに木村奉行の家紋である『丸に松皮菱』の旗を掲げようと言うことになりブルックさんも賛同して、一旦決まりかけたが、それにイチャモンがついた。
その主は勝艦長。 こういう時になると登場してきますね木村さんに関わることはことごとく気に入らないらしい。
勝さんの言い分は、徳川将軍の紋所である三葉の徳川葵の紋の旗を掲げるべきとの主張木村奉行これには猛反発徳川葵の旗を掲げるとは将軍に対する僭上の沙汰(身分をわきまえず差し出た行為)であると、これは譲れないと主張 勝は勝で幕府の軍艦に木村の家紋を掲げるとはそれこそ不敬だと反論した。
乗ってもいない将軍の旗を揚げるのは、それこそ筋違いだとの結論になり松皮菱の旗を揚げることになった。
勝さん、結局、自分の意見は聞き入られなかったと腹を立てている。
事あるごとに木村さんに対する嫌がらせをしているんですね。
◎ サンフランシスコ湾に入港
2月25日の夜に入港の準備は完了していた。 煙突を伸ばすためメーンスルを取り外しトップスルを二段縮帆し、プロペラを降ろし、連結した。
26日は連日の陰気な雨もあがり、晴れ渡っていた。
午前8時から汽走に入った。
午前6時、目指すアメリカ大陸の山々が現れ、左の方には5つほどの島が見えその上に在る灯台さえ肉眼で見える様になり、昨日まで眉にシワを寄せて不安に襲われていた水夫たちも晴れやかな悦びの色を面に浮かべて、小踊りせんばかりに喜び、今か今かとまだ見ぬ国に着くときを待ち兼ねているという有様であった。
と日誌にある。
その様子が目に浮かぶようですね。
午前10時になって、水先案内船という船が近寄り、二人の水先案内人を乗船させて船は金門湾に入ってきた(現在のゴールデンブリッジの架かるところ)左手にはレンガで築いたまるで城のような砲台が見え、湾内の中央にある小島の砲台には星条旗が翻っている。
浦賀を出港して38日目、太平洋4千海里の荒波を命がけで越えてきた咸臨丸。
日章旗、中黒長旗、それに松皮菱の旗をたなびかせて今、波静かな金門湾を粛々と進む。
乗組員一同、それぞれの胸中には溢れんばかりの感慨と歴史上初の国家事業に今、自分が関わっているという最高の瞬間を味わいながら甲板に立ち尽くして目の前の風景を観ていたのでしょうね。
夢と憧れのサンフランシスコ さあ、いよいよ上陸だ!
出典元
咸臨丸海を渡る 著者:土井良三 発行:㈱未來社
咸臨丸、大海をゆく 著者:橋本 進 発行:海文堂出版㈱
咸臨丸 栄光と悲劇の5000日 著者:合田一道 発行:北海道新聞社