【コラム】咸臨丸の夢 ⑯    嵐の中、船上の人間模様

◎小野友五郎の活躍

yone コラム#16-1当たって欲しくなかった、ブルックさんの読みは当たった。

旧暦正月二十七日、そう、皆で豚肉を食べて楽しんだ翌日である、どうやら温帯低気圧に入った様子。

一転して荒々しい海に変わり、強い風が南南東から吹いてる。

投稿 米川

夜が更けるにつれて風は強まり、激しくスコールが来る、帆をたたむタイミングを逸してしまった様子。

ブルックさんの日誌の一文『たたもうとすれば必ず吹き飛ばされるに決まってる』何度もセールがヤードから引きちぎれるのではないかと思ったとある。

今回ばかりはブルックさんをして船が転覆するのではと思ったほどだという。

滝のような雨に打たれながら暗闇の中を疾走する咸臨丸の甲板に立ち尽くしたブルックさん。

そんな中でも、太陽が出ている間は、揺れをものともせず、高度を測り、船の位置を割り出していたのは小野友五郎。

夜になってもずっと甲板で、ずぶ濡れになりながらもブルックさんの片腕として動き回っていたようですね。

ブルックさんは小野さんを大層気に入っており、出港前からその測量技術の非凡なところを見抜いており、こんな男が日本に居たのかと云う驚きを日誌にも書いており、自分の知識は何でも教えてやろうとしていたみたいです。


◎そのころポーハタン号では

yone コラム#16-2そんな嵐の中、近くを航行中の遣米使節団を乗せたポーハタン号も同じ状況で、副使の村垣さんの日誌には『ポーハタンの揺れは猛烈で人も物も転げ回っている。

その中で森田清行は便所に戸を開けようとして転び誰か酔倒れている人の吐いたタライの上に手をつき、それを拭くことも出来ず、床にも戻れずに、正史の新見豊前守(ぶぜんのかみ)の寝床へ転げ込んだ。後で笑い話になったが、その時は誰 とがめる人もなく、唯動揺の音のみであった』と書いていて、村垣さん自身も寝床にあったが、手足を踏ん張っていないと身体は盆の上の桃のように転げ回る始末であったと記している。

“盆の上の桃” うまい言い方ですねえ。ところで森田さんは用を足せたのかどうか、気になるところではあります。

ポーハタン号の排水量は3765トンで咸臨丸625トンの実に6倍、こんな大きな船でもこの揺れ、いかに咸臨丸の揺れがひどかったか想像がつきますねえ。


ポーハタンのタットナル提督は揺れのひどくなった頃から日本の正使たちを見舞いいろいろと親切に気を使ってはくれるが、彼自身もこんなひどい時化はおそらく海軍に入って以来だろうと言っている。

ポーハタン号の日本の正使たちは、いわばお客さん、咸臨丸の日本人は咸臨丸を操縦して航行させるのが仕事、立場が違う。

逆にブルックさんらはお客さんであった筈、それが一部の者を除いて、ほとんど役立たず、未曾有の危機だと云うのに船室にはいったまま。

そういう状況にブルックさん怒りにも近い不満が噴出するんです。

船酔いからも慣れて動けるようになって来ている筈なのに、動こうとしない。

士官は悪天候に対してまるで無知。水夫は風を観て舵をとることが出来ない。

船の中で秩序とか規律とかいうものは全く観られない。

水夫たちは船室で火鉢と熱いお茶とキセルとをそばに置かねば満足しない。

飲酒は厳しく取り締まられていない。 もう憤懣やるかた無い様子です。一番困るのは士官からの命令は全てオランダ語で下され、しかも僅かの水夫たちしかその言葉を解しない。

一体どこから手を付けて良いかわからない程、滅茶苦茶であると嘆いています。

ブルックさんは彼らを教育した長崎海軍伝習所のオランダ教師が悪いのだと言いたいのだが、あの時、伝習所の教師団長カッテンディーケさんもホトホト手を焼いていた事を、思い出しますね。


◎船の指揮権を渡しなさい

ブルックさんの嘆きの最大は、船を操作しているのは自分であるにも関わらず、艦長でもなく、指揮権が全く無いので日本人の水夫たちを動かせない。

提督の木村さんも、艦長の勝さんも部屋に入ったまま。

そういう事を一番理解しているのは中浜万次郎だけである。

ただ、この人の立場は微妙で、英語が達者なだけに他の日本人にはアメリカ人との会話の内容がわからない、と言うことは、アメリカ人側に立って物を言っているという風にとられてしまいがちで、日本人から疑心暗鬼の眼で観られてしまう。

アメリカで教育を受けたという事がどうも、引っかかっているようで事実、ペリー提督来航の時に、当初、通訳に起用する案が上がったが、アメリカに有利な通訳をされるのではとの事で、外されているんですね。

ブルックさんの指示で水夫たちに万次郎から命令を出した時、水夫たちは反抗して逆に万次郎をヤードに吊るすぞと脅したことがあったらしく、水夫たちにすれば『元を正せばタダの漁師の小セガレが、何を士官ヅラしてモノを言うとるのか、わしらに命令するつもりか』とカンカンです、相当頭に来たんですね。

ブルックさんはそれらを見聞きして、万次郎に同情しながらも一番いい方法を探ろうとしています。

2月に入ったある日、ブルックさんは自分の部下に命じ、日本の士官たちに上手廻しの技術(逆風に対する航法)を教えようと申し出たが、皆、種々の言い訳をして甲板に出てこない。 そこでブルックさん、それならばと部下に部屋に戻って何もするなと言い放って、勝艦長に直談判。

もし士官が協力しないなら、自分はこの船の面倒は一切観ないと迫ったんです。

勝さん、流石に困って、士官たちを説き伏せて、彼らをブルックさんの配下につけ曲がりなりにも治まったが、勝さんにしてみれば、病とはいえ、再三の危機にも指揮をとれず、その指揮権すら異国人に渡せばならず、屈辱以外のなにものでも無い。

こんな事ならいっそ死んだほうがマシだと書いているんですね。

もう最悪の精神状態ですね。それに木村さんへの恨みつらみも満載。


◎勝の不平不満

度々の騒ぎでも、木村奉行は安眠して、我、関せずで済ましている。

一番腹の虫が収まらないのは、待遇の差。

軍艦奉行の木村さん、幕府の海軍最高責任者として年収は2000石、一方の勝さんは200俵で80石、実に25倍。現代の貨幣価値にして80石で約100万円くらいだとも言われているので、年収100万円と2500万円の違いといえば、解りやすいですかね。

それだけでなく、今回の航海に対する手当、つまり出張手当ですね。日当✕日数で 木村さん473両、勝さん146両、3倍以上の手当を貰いながら、何をしたと言うのかと怒りが収まらない。でもそれを言うとブーメランになる・ ・ ・ ですね。

そんな時、勝さんの『バッティーラ事件』が起きた。


◎バッティーラ事件

yone コラム#16-3不平不満の八つ当たりの度が過ぎて、ついに勝さん太平洋のど真ん中で『ボートを降ろせ、俺は国に帰る!』と騒ぎ出した、誰から観てもただの駄々っ子木村さんも、福沢さんも観ている。

後に二人から、勝艦長が部屋から出てこないのは酔いや病気ではなく、不平不満でふて寝を決め込んでいただけとまで言わせてしまっている。

ブルックさんも日誌の中で『バッティーラ事件の発端が何であれ、いやしくも一艦を統率する立場にある勝が口にする言葉ではない』とこういう放漫無礼な態度にたいして福沢さんは同じ苦楽をともにした経験があるにも関わらず、生涯、勝を友とする事は無かったと言われています。

こんな日々が続く中、水夫たちも、船酔いで気力、体力もい萎えてしまい『アメリカへ行くのは嫌だ、このまま帰りたい』という者も出てくる始末、まるでコロンブスのサンタ・マリア号での騒ぎと同じ。

不安と緊張の極限状態、出向前の夢や希望や高揚感もどこかへ行ってしまい最低限の人としての尊厳を守るのがやっとの状態。それすら崩壊しそうな咸臨丸。

各人の葛藤渦巻く重苦しい空気を乗せて、それでも一路アメリカへ。


出典元

咸臨丸海を渡る   著者:土井良三  発行:㈱未來社

咸臨丸、大海をゆく 著者:橋本 進  発行:海文堂出版㈱

咸臨丸 栄光と悲劇の5000日      著者:合田一道       発行:北海道新聞社