◎ 嵐の真っ只中
旧暦の安政7年1月19日(西暦1860年2月10日)に浦賀を出港して、いきなり大時化の中に突っ込んだ咸臨丸ですが、太平洋のどういう航路をとったのか。
投稿 米川
ブルックさんはサンフランシスコまでの最短航路をとりました。最短とは房総半島の先端の野島崎とサンフランシスコと地球の中心の3点で形成される平面が地球表面と交わる線に沿って進む航路で、一般的な世界地図でみると右図のような往路は北側に弓状になった航路になります。(大圏航路という)
出港後、嵐の先制パンチを受けた咸臨丸ですがサンフランシスコまで36日間の航海のうち、晴れた日は5日しかなかったとされているので、その殆どは不安な航海が続くことになるのです。
日本人乗組員の日誌から読み取ると咸臨丸は波に揉まれ、左右の激しいローリングが繰り返され27,8度も傾いた波の高さは12〜15メートル位ある。
大きく傾きながらも天まで昇っていくような勢いで打ち上げられ、次の瞬間には奈落の底に突き落とされるような状態で まるで遊園地の恐怖体験の乗り物にでも乗ったような状況が続き、多分その度に船底から物凄い波の当たる音が響き、船が壊れるのではないかというようなキシミ音が皆の恐怖心を煽り、生きた心地もしなかったのではと思いますね。
甲板には激しく波が打ち込み、一瞬、1メートルにならんとする水かさになる、そんな水が窓から怒涛のごとく船室に入ってくる。
明り採りの窓には水が入らないように工夫はされてはいるんですが、その効果もなく、容赦なく滝のように水が流れ込んでくる。
居住空間であるはずのところが部屋中水浸し、衣類も荷物もたまったものではない。
甲板上は歩くのもままならず、物にしがみついて移動するのがやっと。食事の賄いなんぞ、できるわけもなく、皆床に臥せていたとあります。日本人の殆どの乗組員は海軍伝習所の出身なので訓練を受けたものばかりでしたが、沿岸航海のみで、こんな荒天時の訓練は経験が無かったのです。
冬場の太平洋の厳しさを思い知らされ、船酔いと恐怖心で食べるものも食べず体力も消耗し、うろたえるばかりで規律も何もあったものではない状況だったのではと想像できますね。
甲板に出て作業できるのは中浜、小野、浜口(教授方)の3人位で帆の操作は全てアメリカ人が行ったのです。アメリカ人のその殆どはフィルモア・クーパー号の乗組員で経験豊かで彼らは暴風雨の中、誰一人恐れおののく者はおらず、平然と作業をこなしている。
船の揺れだけでなく、考えれば一年で一番寒い、寒の時期、しかも当時は今よりも冬の寒さは厳しかったと言われている。
まして航路は緯度にして東北、北海道辺りみぞれ混じりの雨、水浸しの中で暖を取る物は何もなく、おそらく恐怖と寒さで震えが止まらず、唇は紫色に、手足は寒さで感覚は麻痺し、濡れた着物はどうにもならず、只々、念仏を唱え、過ぎ去ってくれるのをひたすら願っている状態だったのでしょうね。
それにしても、暴風雨の中、何を着て、何を履いていたんでしょう。
当時、紙や布に油を塗布したもので作った合羽というものはあったらしく(番傘の紙みたいなものでしょうか)多分、外ではこれらを着ていたと思われるが、足元はどうだったのでしょう。
やっぱり草鞋(わらじ)しか無かったのではと思いますが、足袋を履いていたとしてもずぶ濡れ、どれだけ冷たかったのではと同情してしまいます。
◎ 勝艦長 倒れたまま
艦長の勝さんは出港して間もなく倒れたが、自身の日誌によると、出港前から風邪を引き、準備で養生どころでなく、こじらせて胃腸炎を発症し、そんな状態で出港とあります。
そこへ船酔いが追いを打ち最悪の状態となり、ブルックさんから構わず休めと言われたので部屋で横になったが発熱ひどく、胸が詰まって体が動かず吐きそうで吐けない、出港して2日2晩飲まず食わず、船の揺れ激しく、生まれてこの方こんな苦しみは初めてだと、流石の勝さんも、青息吐息。
他の者も皆、倒れており誰一人、部屋を訪ねてくれる者はいないと、もう悲壮感が漂っていますね。
その後、中浜万次郎が足を運んでくれ、粥と薬を与えられ、多少快方に向かったが食欲は無し、気力も無し、人間社会に関わる意欲も絶えて無いと最悪の落ち込みよう。
この状態が2月の半ばまで続いていたというから、往路37日間の航海中3分の2は完全に病人だったのです。航海中、甲板に出てきたのは3日だけであったという人もいるくらい。
筆者の知識としては『勝海舟が咸臨丸を指揮し、日本人の手で初めて太平洋を渡りサンフランシスコまで行った』というもので、偉大なる勝海舟の人物像が出来ていたんですが、真実はこういう事であったということですね。
◎ 豚肉を食す
正月26日、低気圧の圏外に出て海はようやく収まり天気も回復した。出港以来初めての快晴、(1日だけだったのですが)濡れた衣服を甲板狭しと吊り下げ乾かした。
提督の木村さんも久しぶりに甲板に姿を見せた、船室に閉じこもったままだったので憔悴の色が見えたが・・・
この日は木村さんより船中に豚肉が配られたらしい 木村さんの従者である長尾さんの日誌に『今晩アドミラール(提督)より船中に豚を賜る、余、同床七人にも一片を賜る味、春宵の価二万倍』と記している。
ことわざに『春宵一刻価千金』(しゅんしょういっこくあたいせんきん)というのがあり、春の宵は趣深く、その一時の時間は千金にも価するという意味であるが、それをもじって春宵の価二万倍と書いているんです。
余程嬉しかったのでしょう、同室の福沢らと分けて、久しぶりの酒でも酌み交わしながら話もはずんだことでしょう。
多分、木村さんは皆の苦労を受け止め、ブルックさんにお願いして豚を分け与えたんでしょうね。もともと豚などの生き物はアメリカ人の食用として甲板に飼われていたものなのでしょうから。
ブルックさんの日誌にも『今日、豚を一頭屠った(ほふった)日本人水夫たちは非常に面白がった、ちょっとしたことが彼らを大いに喜ばせる』と記しています
木村さんも、ブルックさんも優しい人ですね。
で、その肉をどう調理して食べたのかチョット気になるところですが、多分七輪で炭火で焼いて醤油で味付けして食べたんでしょうね。
七輪から、もうもうと上がる煙も食欲を誘ったことでしょう。
他の者の日誌にも『アメリカ人はその油を取って油揚げして食せしむ、其美味なり』となっていて、唐揚げのようなものを作って食べたと思われるが、その当時、日本には油で物を炒めるとか、揚げるとか云う調理法は一般的でなかったと思われるので、日本人として初めて豚肉の唐揚げを食べたのではと推測します。
ただ、この至福の時間は次に来る嵐の前の静けさだったんです。
皆がはしゃいでいるときも、ブルックさん、海の状況を読んでいたんですね。
出港以来吹き続けていた西風が一斉に止み、南から軽風が吹いている、気圧は依然と高い、これを温帯低気圧を発生させる原因と読んだ。
海の状況で航路を南側に進まざるを得ない時があるので、なるべく最短距離の大圏航路に沿って進めようとすると、できるだけ高緯度をとろうと、北に向けた。
ブルックさんの読みは当たった。
出典元
咸臨丸海を渡る 著者:土井良三 発行:㈱未來社
咸臨丸、大海をゆく 著者:橋本 進 発行:海文堂出版㈱
『咸臨丸難航図』を描いた幕府海軍士官
著者:粟宮 一樹 発行:㈱文芸社
拙者は食えん! サムライ洋食事始
著者:熊田 忠雄 発行:㈱新潮社
週刊マンガ日本史34 勝海舟 咸臨丸、太平洋を渡る
著者:安彦 良和 発行:朝日新聞出版