【咸臨丸の夢】⑭      乗艦した人たちと不安な航海の始まり

yone コラム#14-1浦賀からサンフランシスコに向けて出港した咸臨丸であったが、乗り込んだ人たちは最終的に木村喜毅(よしたけ)を頭に日本人94名、ジョン・マーサー・ブルック大尉と彼の部下10名、総勢105名が乗艦した。

その主だった人とは

投稿 米川

◎木村摂津守喜毅

今回の遣米使節団の副使として咸臨丸に乗艦した訳であったが、この人、この時点で29歳、まだ20代の若者だったんですね。

出自は正にサラブレッドで7代続く旗本(徳川将軍の直臣)で生を受け、若くして老中の阿部正弘に見いだされ、先に述べた『長崎海軍伝習所』の取締に就任し、その後軍艦奉行を仰せ付けられた。

正にエリートを地でゆく人で、性格は温厚で我慢強く、人の意見をよく聞いて実行する熟慮断行型で周りの者からの信頼も厚い人物だったらしいです。

同乗した勝さんはこの時37歳、勝さんから見れば歳は8歳年下であるのに、自分より偉く、給料は自分の何倍ももらっている。この事が一番気に食わなかったらしく、事あるごとに木村さんにはイジメとも取れる嫌がらせが有ったということらしいです。


◎中浜万次郎

yone コラム#14-2通訳として乗り込んだ万次郎はこの時33歳この人は土佐の国、現在の土佐清水市の漁師の家に生まれ、地元の奉公を経て、14歳の時に漁師となるべく宇佐浦の船主のところに行き働いていた。

ある時、5人で延縄漁(はえなわりょう)に出かけて、荒天に会い自航力を失って漂流してしまった。7日目に無人島に漂着、この時旧暦の正月13日、その後アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に発見されたとあるが、これが5月の9日。

なんと4ヶ月近くも無人島で生き延びていたんですね

助けてもらったのは良かったが、この時日本は鎖国政策のため、日本には帰る事は出来ずに、そのままアメリカに行かざるを得なかったんです。

万次郎は捕鯨船の名前からとってジョン・マンと呼ばれ船員から可愛がられたとあります。

まだ14歳の人懐っこい少年ですからね。頭が良くて働き者のジョン・マンは船長に気に入られ、アメリカ本国で教育させてやりたいと考え、本人もその好意に即答しホノルルで土佐の船員と別れ、単身アメリカに渡ったのです。

万次郎の人生はここですごい展開をみせるんですね。

アメリカの塾で英語、数学、習字等を習い、その上の学校にも行かせてもらい高等数学、測量術、航海術を学び、19歳の時に捕鯨船の航海士としてデビューし 大西洋、インド洋、日本の近く、またアメリカ西岸沖等を航海士としての経験を積み 日本の土佐に帰ってきたのが26歳の時。漂流してから12年の歳月が経っていた。

老中の阿部さんに召し出されて幕府の直参となり航海書の翻訳等で活躍した。

咸臨丸の計画が持ち上がった際、ブルック大尉は有能な通訳を幕府に希望していた、内心不安であったらしいが万次郎に初めて会った時の印象をこう書いている。

『万次郎は、まさに私が今までにあった人の中で、最も注目に値する人物の1人である』と


◎福沢諭吉

この人は乗船時25歳、木村摂津守の従者として乗り込む。

yone コラム#14-3出自は九州の中津藩の商人の家であるが、父が大阪で中津藩大坂蔵屋敷で廻米方として米の回送・販売をしていた関係で出生地は大阪なんです。つまり咸臨丸に乗り込んだ人の中では数少ない平民なんですね。

3歳の時に中津に戻り、15歳の時、漢学者の元で漢学を勉強し、後、ペリー来航と江戸大混乱のニュースが九州まで伝わった時、兄の勧めで長崎で蘭学を学ぶことになるんです。


時代の流れを読んで転進ということなんですね。

22歳で江戸での修行を志し、大阪に立ち寄った時、兄に勧められ、大阪の蘭学者緒方洪庵の適塾に入門。二年後塾長となります。

翌年、江戸の中津藩中屋敷に開いていた蘭学塾の教師としてお呼びがかかり、この江戸屋敷で蘭学塾を引き継ぐことになります。これが後の慶應義塾となるのです。

その翌年、開港されたばかりの横浜見物に出かけ、その外人居留地で観た看板も ラベルも読めず、言葉も通じなかった事に愕然とし、万国に通じると思っていた蘭学も今や英語であると実感し、間髪入れず、英学へ転進します。

時代を読む感性、対応する実行力はやはり並外れていますね。

ただ、当時、英語塾があるはずがなく、独学で勉強するしかなかったんです。

ちょうどそんな折、遣米使節団の話や別船に木村さんが乗艦する話を耳にし合法的にアメリカに行くにはこのチャンスしか無いと考えた。

自分が知っている人で蘭学者の桂川甫周(ほしゅう)という人が木村さんと親戚関係にあると知り、この人に木村さんへの紹介を懇願したんです。

桂川さんは緒方洪庵から福沢という人物のことを聞いていたんで木村さんへの紹介状を書いて持って行かせたんです。それを持って木村さんに会い、思いの丈を伝えたところ、『よろしい、連れて行ってやろう』と快諾された。

木村さんは軍艦奉行なので当然家来もいるんですが、たどり着けるかどうかも解らぬアメリカまで行くというものがいない中で、自分から進んで行きたいというのである。

こうして福沢は木村奉行の従者の1人として加えられた。

歳も福沢が4歳下なのでちょうど良かったのでしょう。

この時から木村と福沢の親交が始まり、生涯を通じて続き、お互いに敬愛と友情の念を抱いていたと言われています。


◎前途多難な出港

浦賀を出港して間もなく猛烈な荒天に遭遇するんです。

低気圧の通過と季節風の吹き出しによる大西風で海上は大時化の状態東を目指す帆船にとっては順風ではあるが、こんな荒海を初めて経験する日本人の乗組員にとっては、いきなりの船酔いで戦意喪失、先が思いやられる航海の始まりだったのです。

まだ湾の中だったのですから大自然の先制パンチですね

yone コラム#14-4ブルックさんの日記にはこう記されています。

『午後三時、浦賀出港 湾の中で西南西の強い風に乗る、艦長は下痢を起こし、提督は船に酔っている。

翌日、明け方目を覚ました、船は激しく縦揺れしている、デッキに出てみると二段縮帆したメインマストのトップスルが裂けている。その帆をたたむ。フォアスルも半分破れている、それもたたむ、スパンカーを絞ったが裂けて流れてしまった。

非常に荒い海でしばしば波が打ち込む、日本人は全員船酔いだ』セールが3枚も破れるほどの強い風だったのですね。

ブルックさんは日本人全員船酔いと書いていますが、これは誇張ではなく酔っていなかったのは万次郎と小野友五郎と他数名でとてもセールをたたむとか。帆を操作する船上の作業ができる状態では無かったらしいです。


ブルックさんらアメリカの船員が乗っていなかったらと思うとゾッとする話ですね。

ブルックさんの日記は続きます。

『午後四時、北東に転舵する、水温から観て黒潮に乗った思われる。十二時から四時までの間に水温は55°Fから62°Fに上がった。流れに乗ったのなら良いのだがそうなれば北ないし東に向け速度も加わるだろう。

提督はまだ自室にいる、艦長も同様。天候は良いのだが風は真向かいだ、午後七時、風が西向きになることを切に望んではいるが、まあ、これくらいで満足としよう。

私は夕方、お茶に時間に、お茶というよりご飯とイカを食べた』さすがプロの船乗り、ブルックさん余裕ですね。

船が大揺れに揺れている時でも、水温を測り状況を確認しています。

yone コラム#14-5日記に出てくる提督は木村さん、艦長は勝さん リーダー二人ともダウンで部屋から出てこられないこれで、サンフランシスコまでとは、先が思いやられます。

きっと、吐き下しながら、心の底から『ブルック大尉らを乗艦させた我々の判断は正しかったのだ』と思っていたんでしょうね。


出典元

咸臨丸海を渡る    著者:土井良三  発行:㈱未來社

咸臨丸、大海をゆく  著者:橋本 進  発行:海文堂出版㈱

咸臨丸 栄光と悲劇の5000日 著者:合田一道  発行:北海道新聞社