◎ 別船仕立ての発案
1858年7月29日(安政5年)日米通商条約が品川沖のポーハタンの船上で調印された。
この時、1年以内に批准書の交換をワシントンにて行う、そのための使節を日本から派遣する。 という取決めがなされたんです。
その後4名がその任を命じられたんですが、そのメンバーに水野忠徳、この人は前述した人で長崎奉行のときに軍艦購入と伝習所の設立に貢献した人。
投稿 米川
永井尚志(ながいなおゆき)、この人は伝習所の初代総督として貢献した人。4名のうちには、やはり長崎にて海軍創設に寄与した人が選ばれた。
この遣米使節団の発令後、幕府老中に対し『アメリカ国へ別船仕立ての儀』という申入書を企画・提出しているんです
発信元はこの水野さん、永井さん、 渡米の際アメリカの軍艦とは別に日本の船を出してアメリカまで行かせて下さいとの、申入れなんです。
長崎で習得した航海術を外洋で経験させてあげ、アメリカの海軍を実際に観ることで日本海軍にも反映したいという思いなんですね。
幕府老中からの答えは『No』3年そこそこで勉強したからと言って一人前の顔をするなと言わんばかしの返事、大海でアメリカの軍艦から離れたら、自船の位置も分からず、方向すらつかめない中でどうするとでも、言うのか、とケンモホロロ この時は、水野さん、時間を置いて、翌年、再度の申入れ。
『測量術については理論も実技も充分に会得し、六分儀、クロノメーターによる測量も完璧に使いこなせるようになっております』と切々と訴えるんですね。
諦めないと言うか、千載一遇のこのチャンスをものにしないでどうするのかと、必死の様子がみえますね。ところが老中からは何の反応もなく無視されるんですね。
幕府にしては、逼迫した財政の折、そんな不要不急のものに金が掛けられるかと言うことと、開国のゴタゴタと、将軍の後継問題で幕府内部が大揺れの時 かまってられないと言うのが本音なんでしょう。
実際に井伊大老の意に反する者への弾圧が始まったのです。世に言う『安政の大獄』ですね。そのあおりを受けて先に決定していた遣米使節団のメンバーは交代となり、永井さんは政争に巻き込まれ全ての職を免職され、幕府外に追放の罪。
少し前まで得意の絶頂にあった永井さん、別船仕立てどころでは無くなったんです。封建時代とはいえ、永井さん、悔しかったでしょうね。
水野さんはメンバーからは外されたが、かろうじて軍艦奉行には留まることができた。
批准書の交換期限の1年以内が過ぎ、アメリカから軍艦ポーハタンをよこすと連絡があり、新たな使節団のメンバーが決められ発令します。
この時に再度、一度消えた随伴船のことも論じられるようになったんです。
そこで、再度の水野さん、今度は作戦を変え『使節団の正使はポーハタンに乗船するが、正使に万が一の事態が生じた時、を考えると別の船に副使を乗せ渡航するという案が適切と思われる』と、この1点に絞り、訴えるんです。
この人、タフと言うか、やはり日本海軍の創設は自分がやって来たとの自負心が有るんですね。 そういう紆余曲折があり、日本の軍艦で太平洋を渡るという英断を幕府から引き出すんです。 幕府から命じられた咸臨丸ではなかったんです。
そんな中、軍艦操練所の教授方頭取の職にあった勝さんはどうしていたのか 人一倍、海外渡航の夢が強い勝さんの事、永井さんが使節団のメンバーであった時は、永井さんに手紙を送り、外された後は水野さんに手紙を送り、思いの丈を伝えているんです。乗組員の人選に鍵を握る二人に早くから猛烈に働きかけていたんですね。
高級官僚の水野さんからみれば下級武士の勝さんでしたが、一目置いていたのか、丁寧に返事を返しているんです『心配しないで任せてほしい』と。
◎ 船の変更でおおわらわ
当時、幕府が所持していた軍艦は最初にオランダから貰った
『観光丸』 排水量781トンの外車蒸気船海軍伝習所の練習船
『咸臨丸』 排水量625トン スクリュー蒸気船
咸臨丸と同時に発注した姉妹船『朝陽丸』625トン スクリュー蒸気船
英国から1859年に贈与された『蟠龍丸』 370トン スクリュー蒸気船
蒸気船としてはこの4隻
水野さんが選んだのは言うまでもなくスクリュー船の『朝陽丸』(咸臨丸はこの時期長崎行きが決まっていた)
水野さんから勝さんに朝陽丸の準備をするようにとの指示が下された。
ところがところが、ここでまた難儀なことが起こった水野さんが軍艦奉行から外され閑職にまわされたんです。勝さんにすれば、折角ここまで来たのにと云う思い、頼みの綱も無くなった。
人が変わると、言う事、する事も変わる、これも世の常。力のあった水野さんが居ないことを良いことに『朝陽丸』より、より大きな船でと 単純にただそれだけで『観光丸』に変更されてしまったんです。
『朝陽丸』の整備保全や伴奏船としての準備に大わらわの勝さん、はらわた煮え返る思いであるが、従うしかない、抗議しても無駄だからと諦めの境地。
それだけじゃなく水野さんが去ると、勘定奉行が動かない。お金を出してくれるところなんで、承認を貰わないと食料・日用品の調達も出来ない。
わからん者を相手に毎日奔走するんです、天を仰いで、ため息をつきながら
でもこの人も粘り強いんですね、説得し、人を動かし、なんとか形にするんですね。
◎ 船とメンバーの決定
新しい軍艦奉行に木村喜毅(きむらよしたけ)が任命され、遣米使節団の副使として観光丸に乗ることが決定された、この人は長崎海軍伝習所の第二代総監として赴任した人で 勝さんとは当然面識がある人なんです。
老中から木村さんに呼出がかかり江戸城にて、正式に副使として渡米する旨が言い渡され、同時に乗船メンバーの発表があった。
そのメンバーには勝麟太郎の名も含まれ、同じく伝習所で測量術を学んだ小野友五郎、通弁主務(通訳)として中浜万次郎(通称ジョン万次郎)、後に有名人と成る福沢諭吉が従者として名を連ねている。
その他水夫65名、火焚(炊飯?)16名、医者、大工、鍛冶を含め100名を超える陣容が発表された。
でも、まだゴタゴタは続くんです なぜ『観光丸』に決まった船が実際には咸臨丸になったのか。
出典元
咸臨丸海を渡る 著者:土井良三 発行:㈱未來社 咸臨丸、大海をゆく 著者:橋本 進 発行:海文堂出版㈱ 幕末の蒸気船物語 著者:元綱数道 発行:㈱成山堂書店咸臨丸 栄光と悲劇の5000日 著者:合田一道 発行:北海道新聞社