◎咸臨丸の到着と教師団の交代
1857年9月22日待ちに待った蒸気コルベット艦『咸臨丸』(オランダでの造船時はヤーパン号、引渡し後咸臨丸)が長崎に到着した。
艦長はライケンさんと交代し教師団長となるカッテンディーケ大尉、それに本国で選ばれ編成された教師団37名が乗船。第一次より教師団の規模は大きくなった。それはライケンさんから情報として
米川 投稿
日本人は広い知識や技術を欲していると聞いていたので、対応してくれた結果、大所帯になったようです。航海術の他に乗馬術、活版術、医学、羊毛の処理までの専門家をつれて来たようなんです。
◎ペレス・ライケン教師団の帰国とお礼
咸臨丸の入港から1ヶ月後、ライケンさんの教師団はオランダ商船で帰国の途についた咸臨丸が外海まで曳航し、礼砲とともに日本人伝習生全員が見送ったとあります。幕府から教師団に対し下記目録の商品が御礼の品として贈られた。
目録
団長に対し 刀二振りと銀35枚 及び 羽織20枚 各士官に対し 刀一振りと銀15枚 及び 羽織5枚 下士官、兵に対し 絹織物及び漆器
そのうえ教師団全員に帰国後一定期間、日本で受けていた特別手当を与えるとの約束もした団長は5年間、一等士官4年間、二等士官3年間、その他下士官及び兵は2年間という内容が盛り込まれていた。
幕府としても相応のお礼を考えたのだと思うのですが、当時の財政は逼迫していたらしいが それでも、感謝の気持ちを表したのですね。でも、羽織とは面白いというか、お値打ちの羽織だったんでしょうね。
余談にはなりますが第一次のライケンさんにしても、第二次で派遣されたカッテンディーケさんにしても後にオランダの海軍大臣の地位にまで昇り詰めた人なんです。そう考えると、オランダとしても結構本気で取り組んでたのかと思いますねえ
咸臨丸そのものにしても、大枚はたいて買ったつもりが、中古のいい加減な船を掴まされたとしても、当時のこと、仕方がないところを、きちっと誠意を持って、新造船を約束通りに届けてくれた。オランダからすればはるか極東のちっぽけな国でしかない日本を、結構重要視していたんですね。
◎カッテンディーケ団長による教育の変化
先のライケンさんは技術・理論畑の人、カッテンディーケさんは運用畑の人、おのずとその教育方針は変わろうと云うもの。
艦船の運用は訓練と規律によって左右される、という考えのもと、セールの操作、ヤードの上げ下ろし船底の清掃と普段のルーティーンワークの比重が大きくなり、訓練の繰り返しにより体に覚えさせるということを徹底した。
覚えが悪いと体罰も大いに行われたというオランダ海軍もそういう風土であったとのことでそれを日本に持ち込み、規律を徹底させようとした。
ところが当時の日本人は極めてルーズなところがあり『規律も規則も何もない』と嘆いている。
時間を割いて諸規律を説明し日本にも同じような規則が必要であると説いても、ほとんど無駄骨に終わったと回想録にある。
ライケンさんはバタビアに一旦派遣され、その後日本に赴任した人、カッテンディーケさんは オランダから直に日本に来た人、やはりカルチャーショックの段差の高さは大分異なる。
でも、その一方で伝習生に対しては理解力が高く、旺盛な好奇心と記憶力に恵まれ、覚えた知識を拡充していければ、立派な海軍士官にはなれると評価している。
カッテンディーケさんが危惧しているのは彼らが海軍士官に成るとの目標で勉強、訓練しているのかということ、なかには立身出世のステップとして伝習所を踏台にしている人間もいるのではという懐疑的な見方もしていたようです。
日本はイギリスにも劣らぬ海軍国になる必要条件を満たしており、是ともそうなって欲しいと心からそう思っていたようですね。
◎勝さんの評価
ライケンさんから劣等生の烙印を押され、留年した勝麟太郎、カッンディーケさんに代わって評価はどうなったのか、気になりますねえ。
それが劇的に変化するんです。カッテンディーケさんから見れば『オランダ語をよく理解し、性質も至って穏やか、明朗で親切、すこぶる頭が良く、どうすれば我々を最も満足させ得るかという事をすぐに見抜いてしまう』 もうベタ褒めですね。
学生長としてまとめ役として非常に頼りになる人間だという最高の評価です。まあ、人の評価というのはこれほどまでに異なるものなんですね、どっちの角度ら観るかそれで、光と影が全く違うんですね。 このたぐいは我々も多くの人が経験していますがね
でも、勝さんという人は恐ろしく強運を持ち歩いている人なんですね 後に江戸へ戻った時は軍艦操練所の教授方頭取の役についているんです、教授陣の一番上ですよ、伝習所を落第した人が、もうびっくりというか、能力を発揮できるところにスッポリと嵌ったという感じですね。
◎長崎伝習所の閉鎖通告
カッテンディーケさんの訓練のおかげで咸臨丸での乗船実習での腕も上げ、近海の巡航へと着実に上達し1958年には4回の九州周辺及び九州一周の巡航実習の実績を積んだ。
そんな矢先、長崎奉行からクルチウス弁務官(商館長)に対し口頭で『伝習所に対し予期せぬ障害が生じ、早々に伝習生を江戸に返す処置を取らねばならなくなった』と通告して来たんです。つまり、伝習所は閉めますと言ってきたんです。
誰も予期せぬ奇怪な通告に対しカッテンディーケさん不愉快極まりなく、閉鎖の真相を掴みたいと探ってはいたのですが、結局掴み得ないまま、1859年の秋に帰国の途についていて『いったい如何なる動機でかくも奇怪な決定に出たのか、真相は永遠に謎として残るであろう』と書き残している。 何の説明もなく解雇され全て無くなってしまうのですから、悔しいですよね。
◎事の真相は?
その前年、1858年に幕府はオランダとの通商条約の交渉を行っていて、上京したクルチウスさんから『オランダがこれまで軍事教育を施して来た事について、英米その他列強がオランダは日本を使って英米に敵対行為をとらせようとしているとの誤解を生じ、公式にオランダ政府から軍事教育者を派遣することは難しくなってくる』という言葉が出て、私的に切り替えるべきかという相談をしているんですね。
どうもこの辺りの問題が大きくなって、閉鎖せざるを得なくなったのではと言われている。
まあ、開国すれば、外交という厄介な道をバランスをとって歩かなければしょうがないんですよね。
オランダと清の国だけを相手にしておけば良かった幕府もいよいよ西欧の列強相手に立ち回らなければならない事態に時代は大きく廻り始めたのです。
出典元
海軍総説史 著者:篠原 宏 発行:株式会社 りぶろぽーと長崎海軍伝習 著者:藤井 哲博 発行:中公新書咸臨丸、大海をゆく 著者:橋本 進 発行:海文堂出版㈱フリー百科事典 ウィキペディア 『ヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケ』