◎ 第一次教師団の教育
長崎海軍伝習所は永井玄蕃頭(ながいげんばのかみ)を総督(所長)として組織された訳ですが、この人は後に日米通商条約の遣米使節団のリーダーに任命され、その時に咸臨丸での太平洋横断を企画し幕府へ申し入れをした人なんです(後に使節団から外されたみたいです)
投稿 米川
教授陣は先に述べたペレス・ライケン中尉以下22名の第一次教師団で構成されたこの教師団は1855年12月から最終閉校となる1859年9月まで4年弱の間で途中交代となるんです。
オランダに発注した咸臨丸が納船されるとき、操縦してきた者がそのまま第二次の教師団として交代する予定だったんです。
従ってライケンさんは咸臨丸がやって来るまでの教師団長なんですね。また、生徒となる伝習生はこの4年弱の間に幕府側から推薦を受けた人が3期に分かれ入校し、他に佐賀藩や福岡藩からの推薦者も2期に分かれ総勢400名を超えるの人が学んだそうです。
伝習所での教育は実際の軍艦の乗組員の養成を目的としており、幕府側としてはオランダから譲り受けた観光丸と既にオランダに発注してあるコルベット艦2隻の計3隻分の乗組員を想定して270名程度を考えてはいたが一度にそんな沢山の教育も難しいのでまずは第一陣として基幹要員だけを教育しようと考えたんです。
そこでまず、3隻の軍艦の艦長候補として勝 麟太郎含む3名が推薦され、伝習所での学生長として選ばれたまた、幕府側から艦長候補とは別に特別指名された人が
小野友五郎、この人も後に咸臨丸の太平洋横断に参加することになった人で、幕府の天文方のホープらしく(天文方という職種があったのですね)数学にも精通しており、一般の生徒とは別に『航海測量』を専門に習得することを命じられた人なんです。
◎ 文化、風習の違い
長崎海軍伝習所は海軍の兵学校というより、軍艦の総合技術学校の色彩が強く、入校時より業務を想定した要員に分けられた。例えば士官要員、下士官要員、その下の海兵隊以下と云うように、ただそれはそのまま軍艦乗船時の上下関係となってしまい、入校時の伝習生といえど、幕府の役人なので、それぞれの身分があるわけで、今と違って封建社会の事なのでその当てはめに苦心した様子がうかがえます。
また、日本人の文化として上司、目上の人、身分が上なのか、下なのかでその対応が変わることがあり、実際、ライケンさんら教師団が苦労したのも、その辺りらしく自分よりも身分の低い者からは物事を教わらない。とか士官は通常の艦上業務は下士官以下のものにさせて、それらを学ぶ姿勢がないとか、オランダ人からは理解しがたいほど奇異なものに映ったらしい。
困ったのは通訳の者が日本の上司からの伝言は忠実に訳すが、教師団から総督にたいするクレームなどは曖昧にしか訳せず、その真意が一向に伝わらず苛立つ事も多かったようです
身分の高い伝習生に対する叱責も通訳によっては骨抜きにされることは日常茶飯事で教育事態にも悪影響が及ぼしたと教師団から思われていたようです。
この辺りは文化の違いがまともにぶつかり合うことなので、古今東西いつの世も難しい事のひとつですね。
◎艦内の火気の取り扱い
ライケンさんが艦内の生活で一番気にした事は食事の時に伝習生が各自、コンロを持ち出して炊事をすることなんです。また好きな時に好きな場所でタバコを吸い、火鉢の炭火でお茶を沸かして飲むこと。
一つ間違えれば、艦内のことなので取り返しのつかない事態になるというこを厳しく躾ようとしたが、これも国民的な習慣なので一朝一夕ではなかなか改まらず、頭を痛めたらしい。
後に咸臨丸に乗船した福沢諭吉も火鉢の炭火でお茶を沸かそうとして、もう少しで咸臨丸を焼いてしまうところの失態を犯したと言われている
◎ライケンさんの人物評価
ライケンさんは小野友五郎を高く評価しており、授業とは別にライケンさんの出島の宿舎に彼を招いて西洋式の微分、積分、力学などを教えているんです。
一方、勝麟太郎は数学が苦手で理論的でなかったので理論派のライケンさんから見れば劣等生に見えたらしい。所謂『あいつは口ばっかし』という事になるんですね。
◎勝の留年
長崎伝習所とは別に幕府の思いとして江戸に軍艦操練所をつくる話が持ち上がり、実際1857年に開所されるんですが、その教授陣に長崎の第一期伝習生を当てようとし、まだカリキュラムが全て済んでいないにも関わらず卒業させ江戸に帰る命令を出すんです。
当然、ライケンさんは反対するんですが、押し切られ1957年3月に総督も交代し永井さんも一期伝習生と共に観光丸で江戸に向かったのです。
この年の秋に咸臨丸が来る予定で、その時に教師団も交代となり、先生も生徒も一度に交代は問題があるというので、学生長の勝を長崎に残らせて、取次の任に当たるという筋書きを建てるんですが、実際には出来の悪い勝麟太郎の処遇に困っていたらしく、軍艦操練所の教授をさせる訳には行かず、とりあえずの留年処置となったようです。
ところが本人はその処遇に対して不満をぶつけるわけでもなく、それを良しとしたとの事 憶測では勝はその当時長崎に妾を作っていたらしく、もう少し長崎に居たかったのだろうとの事 江戸に本妻を残し単身赴任だったので、これ幸いに女遊びにうつつを抜かし子供まで作っていたとのこと。
それにしても皆が勉学に励んでいる時に、色恋に励んでいては学業もおろそかになろうというもの、この人、勝麟太郎は生涯で5人のお妾さんを作ったとか言われており、すごいと言うか、呆れると言うか、ある意味大物なんでしょうね。
出典元
海軍総説史 著者:篠原 宏 発行:株式会社リブロポート
長崎海軍伝習所 著者:藤井 哲博 発行:中公新書
咸臨丸、大海をゆく 著者:橋本 進 発行:海文堂出版㈱