幕府が咸臨丸に代表される軍艦を急いで手に入れる必要に駆られたのは、それは取りも直さず、アメリカの黒船がやって来た、あの事件が全てなのですね。
大きく世の中が動いた衝撃的な大事件だったんです。 投稿 米川
◎ 黒船 浦賀に現る
ペリー提督率いる黒船艦隊は2度、来航しているんですね、最初からの計画通りに。
1回目、1853年の7月8日の夕刻、見たこともない馬鹿でかい真っ黒な船が真っ黒い煙を モクモクと上げて浦賀沖を進んできた。船は4隻、2隻は外車搭載の蒸気船、『サスケハナ』と『ミシシッピー』、あとの2隻は3本マストの帆船『プリマウス』と『サラトガ』
『サスケハナ』の排水量は3,824トン 当時の人が知ってる大きな船は 千石船、排水量は約200トン程度 実に19倍、度肝を抜かれるほどの大きさ!4隻の総排水量は1万トンを超える。
それが、1列に並んで砲門をこちらに向けている。
◎パニック状態の民衆
いつ大きな大砲が火を噴くかもしれない、もう恐怖ですね
家財道具をまとめて逃げる準備をする者が続出、それに輪をかけて流言飛語が飛び交う
何が本当かウソか、誰を信じて良いのか、もはや恐慌状態 食糧、日用品を買い漁る。物は無くなり、物価は一気に高騰、米も梅干しも、何もかも高いわ、無くなるわ、不安は最大限。
1974年のオイルショックのトイレットペーパー騒ぎを思い出しますね。関係のないものまで無くなってどえらい騒ぎ。
お寺さんまで、それに便乗し、社会不安を煽って御開帳、多くの人を集め黒船の鉄砲に当たらないという御守りを出して大儲け、このバチ当たり目が!
なんと言っても皆がびっくりしたのは船がバックしたことなんです。 風も潮の流れも関係無く 船がバックするとはどういうことか、しかも山みたいな大きな船が、はじめてそんな光景を 見た民衆は神がかりの船だと大騒ぎになったらしいです。
とにかく世の中がひっくり返るほどの大騒ぎだったんですね。
◎ペリーは何の目的で日本に来たのか
ペリーはアメリカ大統領の国書を日本のエンペラー、つまり将軍に渡すために持って来たんです。
国書には日本に対する要望が書かれており、一言でいうと『開国と通商』
アメリカは太平洋で捕鯨をしていて、補給基地を確保したかったのがとりあえずの目的で その後の開国と貿易に発展したかったんですね。
アメリカの捕鯨は食肉用ではなく灯油に使う鯨油をとるのが目的で、クジラが捕れなくなってきた大西洋から太平洋に 漁場を変え、アメリカの捕鯨船団は、日本のすぐ近くまで出没し、日本の海岸に注目していて、適当な寄港地を探していたんですね。
◎幕府にとって晴天の霹靂、寝耳に水の話だったのか?
黒船到来の事件は太平の世に突然降って湧いたかのように思っている人が多いが(私も含めて)実は外国の黒船が数年前から何十隻も日本近海に現 幕府も知っていて、黒船事件から10年以上前には英国の軍艦が隣の大国、清の国に戦争 仕掛けて、あの大国の清がコテンパンにやられたという情報も幕府には衝撃的に入っているんですね。
世に言う『アヘン戦争』ですね。
アメリカのペリー艦隊の事も少なくとも前年にはオランダの情報が長崎経由で幕府の耳には入っていた。ペリーという提督が率いる4隻の艦隊が来るという、そこまで解っていたんです。
それでも江戸幕府はなにも手を打たなかったというのが通説みたいですがそうでもなかったようです。
幕府の中心人物の代表は老中にあった阿部伊勢守(いせのかみ)正弘、彼はアメリカが来た時のために長崎で英会話の教育を始めているんですね。
それに交渉の戦略と江戸湾の沿岸警備に力を入れるんですが、開国の要求に対し、その答えは、どこを落とし所にするか、幕府の重臣一同も意見がまとまらず、結論が出ずのまま、その日を迎えてしまった。
それはそうですね歴代の徳川将軍が金科玉条のごとく大事に守って来た『鎖国令』、これとの関係をどうするのか。これは難しすぎる難題ですね。
浦賀に停泊するも、一向に埒のあかない幕府に、ペリー艦隊は、より江戸に近くにと船を進め金沢八景沖に投錨、このポイントをアメリカン・アンカレッジと命名、アメリカが投錨した歴史的なポイントとして命名したんですね。
余談になりますが太平洋戦争が終わって ポツダム宣言の受諾式がミズーリーの甲板上で行われたんですが、このミズーリーの停泊ポイントが、このアメリカン・アンカレッジなんですね。マッカーサー元帥もかなりの策士だったんですね。
「長崎に行け、江戸では会わぬ」「いや行かぬ、ここで会う」の押し問答の末、ペリーは強引に久里浜に上陸。
海兵隊、水兵、軍楽隊など300名を率いて隊列を組んで整然とした上陸 旗艦サスケハナからは13発の祝砲、派手な演出ではあるが、礼節を尽くした上陸式であったようです。
久里浜海岸で執り行われた国書授受の儀式は、双方ともに威厳を持った礼儀正しさで短時間に終了したとある。
幕府もとりあえず受け取るしか無く、一旦お引取り願った恰好ですね。
国書の内容に対する回答を来年の4月か5月に、より多くの艦隊を率いて再び来航し、受け取りに来ると言い放って 十日間の滞在を終え、ペリーは帰路についた。
出典元
船の科学館 資料ガイド7 咸臨丸 発行:(財)日本海事科学振興財団 船の科学館
船の科学館 資料ガイド4 黒船来航 発行:(財)日本海事科学振興財団 船の科学館
週刊ビジュアル日本の歴史49 黒船来航 発行:㈱ディアゴスティーニ・ジャパン
海軍創設史 著者:篠原 宏 発行:㈱リブロポート
ペリー艦隊大航海記 著者:大江 志乃夫 発行:㈱立風書房
NHK地デジ番組: 歴史秘話ヒストリア「日本人ペリーと闘う 「165年前の日米初交渉」