◎ブルックさん奔走する
咸臨丸の日本人は行く先々で歓迎歓待を受けて、サフランシスコ市の時の人となり、晴れ晴れしい毎日であったが、そんな中、舞台裏で動いていたブルックさんの姿があった。
それは、航海中も乗組員に話していた咸臨丸の修理、改造について。
投稿 米川
激しい嵐の中を航行して来たため傷みもひどくなり、特に滑車類、ヤードやブーム、救命ボート等の修理や新調をせねばならない事。
それにプロペラが完全に上昇せず水の中に入ったままなので、船体を振動させて、速力を落していること。
入港時にプロペラを下げてシャフトと接続したと記述されていたので、上昇はするが、途中でひっかかり、水面より上には上がらなかったと思われますね。
それに、ブルックさんの見立てでは、ヤードに対しセールの大きさが小さすぎるので大きなものに新調すべきであることや、他にも多くの改善すべき事があるという。
ブルックさんにとっては自身はここで船を降り、復路は日本人だけで帰るので関係がないと言えば、そうなのですが、そこは放おっとけ無い性格、何事もなく日本まで帰れるようにと奔走してくれるんですね。
まず、サンフランシスコの海軍長官であるカニンガム氏宛に、入港の報告と、自分は日本政府とポーハタンのタットナル司令官の命令をうけて咸臨丸の航行を支援してきたこと。またこの船には木村という日本の海軍長官が乗艦され、帰航の事を考え、修理を要望されている事、できれば太平洋の台風を避けるため、早期にお願いしたいと云う旨を文章で依頼しているんですね。
そうすると、翌日にカニンガム長官から快諾の返事がよこされて『本官の指揮下にある造船所はあらゆる方法で木村長官の便宜を図る事に喜びを感じている・・・・
ご都合の良い時期に咸臨丸をドックに入れられたい』と。
ブルックさんの行動の俊敏さと人脈の太さに感心するところです。修理はサンフランシスコ湾内の北側に位置するメア・アイランド海軍造船所で行い、広い敷地内にドックはじめ製作工場設計事務所、武器、食料品等の保管庫官舎等が配置された大きな造船所です。
このカニンガム長官は船を修理している間の日本人の宿泊施設として敷地内の自分の住居の隣の官舎を充てがってくれたり、士官たちを自宅に呼んで歓待してくれるなど、いたれりつくせりのお世話してくれるんです。
それからもうひとり、ブルックさんの紹介で貿易商を営むブルックスさん(Brooks)という人で、この人も咸臨丸がサンフランシスコを離れる間際まで親身になって世話してくれた人なんです。
ここでは、詳しくは触れませんが、咸臨丸の過酷な状況での航海でサンフランシスコ到着後、3名の水夫が病院に入院するも、亡くなっているんですね。
これらの人のお墓を立ててくれたのも、このブルックスさんという方なんです。
この人は後年、サンフランシスコ初の日本領事として活躍された人らしいです。
これらの人のおかげで、3月4日咸臨丸の修理が始まったのです。
◎ 浮きドックにびっくり
3月4日の朝9時に咸臨丸を浮きドックと呼ばれる施設内に導き、所定の位置でドックの両側に固定、次に蒸気機関を使って浮きドックの底部に設置された多くの箱状のタンクの中の水を排水させる作業が始まった。
するとタンク内は排水された水の分だけ、空気が入りタンクに浮力が生じて浮き上がってくるという仕掛け。それが幾つも連なっているので船を持ち上げるというもの。
観ていると大きな咸臨丸が水面から徐々に上がってくるではないか。
一同、目を丸くして観ていたのか、息を呑んで観ていたのか、いずれにしても 今、自分の目の前で繰り広げられている光景を信じることが出来なかったのでは無いでしょうか。
喫水線が上昇し、やがて船尾の舵が水面から顔を出し、丸裸になった船底が見えてきた所定の位置まで上昇したのが、昼過ぎであったという。
ここでも、技術力の差を見せつけられた思いですね。
姿を現した咸臨丸の船体は思ったほどの損傷はなく、一同ホッとし一安心したという。
予定していた修理にとりかかる。
日本の水夫たちは自分たちが出来ることは手分けし作業にかかった。
蒸気機関など特に修理の必要は無かったようであるが、それも船体から取り外し、蒸気方全員で手入れをしている。
ヤードやビームを外すためには、それを支えている無数の索具類を外さなければならない。
それも、水夫や火焚達の仕事として力を出したブルックさんは毎日、朝早くから顔を出し木村さんも公式行事が無い時はいつも現場に顔を出し、作業を見守り水夫たちを励ましている。
勝さんも艦長としてドックにつきっきりで指示を出している。
アメリカの責任者は何をするにも勝さんに具体的な修理方法や時間の見通しを説明し承諾を得て進めている。勝さんは自分たちが未熟ゆえ損壊させたものが多いので、責任者が良いと思ったことは相談せずに独断で進めてくださいと言っている。
日米、非常に良い関係で作業が進んでいる様子です。
◎ アメリカ風俗習慣の違いに驚き
日本人の宿舎は、レンガ造りの4階建ての官舎で別棟には自炊用の調理場と浴室が備えてあり、周囲には緑や花も咲いており、牧歌的な雰囲気の中で快適な住環境を与えてもらった様子。
同じ敷地内にアメリカの士官たちも住んでおり彼らの家に招かれて歓談したり、カニンガム長官の家庭にも訪問し、家族の人達との交流でアメリカ社会の実態を身近に経験し感じるところも多かったようですね。
特にびっくりしたのは招かれた時に奥様が出てきて客の相手をし、その間、旦那が動き回って食事の段取りをしてくれる。 全く日本の男尊女卑と違い、逆さまの女尊男卑であったと、風俗習慣のあまりの違いに可笑しくて驚いたと福沢諭吉は自伝にも残しています。
◎ 造船所の見学
カニンガム長官は造船所の全てをオープンに案内してくれた。
造船所の中心にレンガ造りの最大の建物があり、そこは金属加工の工場にあてがわれ、1階には鍛造工程(金属を加熱して叩いて成形)があり、ふいごが備えられ、金属の加熱には石炭が使われていた。
金属を加工する機械の駆動には蒸気機関が用いられ、圧延、切断、穴あけ等の加工が行われていた。
ボイラーから出る煙は地下を通して隣接したレンガ造りの煙突に導かれている。
当時の日本の機械といえば、はた織り機や時計、からくり等の木製の小型の構造物が殆どで金属で作られた大きな機械は観たことも無かった。
日本人には別世界のようだったのでしょうね。
工場の外に目を向けるとメア・アイランドにはサンフランシスコから電信用の海底ケーブルが敷かれ、それにより通信できていること。
また揚水用のポンプは風車を利用したポンプであったことなど、イギリスから始まった産業革命を目の当たりに見て、勉強になったというレベルを越えて、多分消化不良になるほどの新しいテクノロジーに衝撃を感じ、一方であまりに遅れた日本の現実を思い、どこから手を付けねばならないのかと戸惑いを感じていたんでしょうね。
出典元
咸臨丸海を渡る 著者:土井良三 発行:㈱未來社
咸臨丸、大海をゆく 著者:橋本 進 発行:海文堂出版㈱
咸臨丸難航図を描いた幕府海軍士官 著者:粟宮一樹 発行:㈱文芸社