【コラム】咸臨丸の夢 ⑫ やっとの事で咸臨丸に    

◎ブルック大尉一行の乗船

yone コラム #12-1一度は決まった、別船仕立ての太平洋横断のメンバーであり、船であったがここに来て新たにブルック大尉とその部下10名のアメリカ人が乗船するという話が突然、持ち上がった。

投稿 米川

その話の経緯はこうであった。ブルック大尉はアメリカの測量船、フィルモア・クーパー号(排水量95トンの帆走スクーナー)の艦長として太平洋を中心とした測量調査を命じられ、日本近海の測量のため調査中、横浜に1859年8月に到着し、上陸中、台風に遭遇し船が難破してしまい、修理不能で帰る船を失い横浜に住みながら帰りの機会を伺っていたんです。

そんな中、遣米使節団の話や別船にて太平洋を渡るという話を耳にし、帰る機会を得たと云うことなんです。


単純にそれだけだったら、遣米使節団の迎えの船ポーハタン号に乗船すれば良いことなんですが、別船への乗船案の裏には日本の軍艦として初の太平洋横断の偉業に乗じて日本人を案内してその試みを成功させ、手柄にしたいという功名心があったことは確かなようですが、純粋に手を貸してやりたいとの思いもあったようです。


yone コラム #12-2当時33才のブルックさんは15才で海軍に入隊し。経験豊かな帆船乗りであったこと、数少ない太平洋横断の航海経験を有する人物であったこと、既に何人かの日本人との航海経験もあり横浜にも住んで日本人への理解と馴染みがありそれらが複合し日本人の手伝いをしたいと言う思いがあったようですね。

ブルックさんはポーハタン号入港後、その艦長と別船について討議し、冬の太平洋を渡るには古い外車船ではなく新しいスクリュー船にすべきだとの結論に達し、なんならポーハタン号から必要な人間を差し向けよう、とまで言ってくれたこの討議内容の文章が幕府にわたり、幕府から『観光丸以外の船に変えよ』との指令が出された。出港まで1ヶ月を切った時点である。


◎またまた腹ワタ煮えくり返る勝さん

船はその時点で咸臨丸しか都合がつかず、そういう経緯で咸臨丸に決定ブルック大尉とその部下10名の乗船も決定されたんです。

yone コラム #12-3この話を聞いた勝さん、怒り心頭。 もともとスクリュー船でという意見をひっくり返し、観光丸に変え、大変な思いで準備、積込みを昼夜徹して行い、ほぼ完了したこの時点で、スクリュー船が良いとは、どういう事か、自分たちの意見は聞き入れず、アメリカ人の言うことは二つ返事で『そうですか、ではそうしましよう』とはあまりにも軽々しく情けないと、もう爆発しそうなんですね。

自分たちが主張していた案なので、基本的には同意出来ても、勝さんは会社でいえば、中間管理職みたいなもの、部下への説得という難関が待ち受けているんです。

アメリカ人の乗船に関しても、日本の士官にとっては日本人のみで偉業達成へと血気盛んな連中をどう納得させるか、困った困ったの連続。

正直言って木村さんも勝さんも、日本人のみの太平洋の航海には一抹の不安は持っていて、自身は絶対反対ではなかったのです。確かに名誉もありますがなにしろ命が掛かっていることですからねえ。

そんな話を聞いてから2日後、木村さん、勝さんはブルックさんと咸臨丸の船上で

会っているんです。どちらから声を掛けたのかは定かではないですが。


◎ブルックさんを気に入った勝、士官の説得へ

ブルックさん、咸臨丸を観て非常によく整備され、良い船だとの印象で大変気に

入った様子だったらしく、木村さん、勝さんらと快く会談に応じている。

多分、勝さんにとってはブルック大尉の人物見極めとしての面接の位置付けだったのでしょう。

yone コラム #12-4いろんな質問をして力量を測り、航路に関してはブルックさんから、事前に準備してきた綿密な航海図で説明し、状況変化への誤差への対応測定方法、修正方法等、事細かに丁寧な説明があった事で、勝さんとしては申し分のない力量を持ち合わせた人物であると惚れ込んだようです。

その後、士官を集めて勝さんこう言った『ブルックらアメリカ軍人が日本に滞在中、幕府から受けた手厚く、温かい待遇に感謝して、この船に同乗して我らに助力したいと願っており、幕府の許可を得て同乗させるものである』こういう理屈をつけた言い方が、たぎり立つ士官らを抑えたと云うことらしいです人の上に立つリーダーとしての風格が見えますねえ。


◎船の変更、水夫への説得  勝さんの奇策

yone コラム #12-5休日返上で大変な思いをさせて観光丸の準備をし終わった矢先の船の変更またそれを水夫達に強いることになる。帆船の静索、動索と無数にある索具を整備するだけでも大変な手間、その上食料、荷物、石炭の積替えと重なる重労働、例えば米だけでも俵(約60Kg)にして190俵、これを観光丸の船底に積んであったものを引き上げ、陸上を咸臨丸まで運び、その船底に下ろすという作業こんな作業が3度目になる。水夫たちの不平も最高潮、それら不平、不満、嘆願その全てを引き受けなければならない勝さんの立場。

yone コラム #12-6観光丸に変わった時点で『これ限りだから、ワシに免じて辛抱してくれ』って言ったかどうかは知らないが、そういう状況だったろうと想像がつく、それが今や面目丸潰れ、下船すると言い出す水夫が多数現れ、収拾がつかなくなる事態。

こんな無用の事にこきつかわれるのは真っ平御免だ、とてもアメリカまでついて行けないと騒ぎ出した。


そこで、勝さんどうしたか

木村さんに無断で2日ばかり雲隠れしたんです。 それで木村さんは水夫たちに向かって『勝さんはアメリカ行きを辞退された』と話をしたんです。

水夫たちは長崎以来ずっと恩を受けている勝さんが幕府の命令に反して我々のために罪を得るようになっては申し訳ないと、下船を取り消し、命に従うと申し出たという事です。 反乱寸前で留まったということですね。

yone コラム #12-7

その3日後、勝さんは水夫たちに対して大幅にアップした手当を支給したんです。

この手当に関してはその少し前に幕府に掛け合い、あまりにも低い士官から水夫までの手当を揚げてほしいとの要望書を出し、認められて、水夫に対しても給与の2倍の航海手当が加算されるとの内容をこの時点で支給を実施したものだったんです。


yone コラム #12-8勝さんから見れば、下級の水夫たちに対しても親身になって面倒を見てきたからこその、雲隠れという奇策が通じたんですね。

リーダーとしての懐の深さを感じぜずにはおられないですね。そんな事があって、この件に関しては丸く治まったとあります。

正にこの様な紆余曲折があって、咸臨丸の決定、及び乗船メンバーが決まったという事ですが、歴史とはこの様な偶然とでも言うべき事柄が折り重なって出来上がって行くものだと思うと、人の運、物の運、そんなめぐり合わせの縁(えにし)とでも言うべきものが歴史の裏側には存在するということを感じてしまいます。


出典元

咸臨丸海を渡る    著者:土井良三 発行:㈱未來社

咸臨丸、大海をゆく 著者:橋本 進 発行:海文堂出版㈱

咸臨丸 栄光と悲劇の5000日 著者:合田一道         発行:北海道新聞社