◎ 『スンビン号』を幕府にプレゼント
1855年の夏、ファビウスさんが2度目の長崎に来航した時 海軍中尉ペレス・ライケンさんを引き連れスンビン号とへデー号の2隻でやって来たんです。
そしてそのスンビン号は国王ウィレム三世から徳川将軍家定に献上品として持ってきたと長崎奉行の水野さんに伝えた、つまりタダでプレゼントしますという事。この船を正規の練習船として活用し海軍の教育を年内に開始したい旨を伝えた。
投稿 米川
でもまあ、すごい話ですね、蒸気船1隻贈りますとは、まだ5年くらいしか経ってない船なんですよ。日本としてもタダで手に入るとは思ってもいないこと、『渡りに船』とはまさにこの事。
ただ、このオランダ側の好意と取れる対応は、多分、艦船の注文に十分に応えることが出来なかったから、なのかと思うのですが。
それで、その軍艦の注文はどうなったか、というと軍艦7,8隻の要望に対し、最終決定は蒸気船のコルベット艦2隻のみと随分縮小されたようです。
コルベットというのは艦船の大きさの等級で、当時のオランダ海軍の艦級は大きいものから戦列艦、フリゲート艦、コルベット艦、スクーナー艦、ブリック艦の順となっていました。
スンビン号贈呈の話はこの縮小された話の穴埋めの意味合いもあって、商館長クルチウスさんが考えたものらしいですが、水野さんの頑張りもあったんでしょうね。
贈呈に対して幕府側からの返礼品として 鎧兜一領(1Set)、黄金の太刀一振、長刀一振 金屏風五双、備前焼大皿一組を贈ったと記されています。
◎ 咸臨丸の価格は? 支払いは?
後の咸臨丸含むコルベット艦2隻の注文にいくら払ったのか、そこに感心が行くのですがどうもここのところがハッキリ解らないんですね。何も支払いの記録が残ってないようなんです ただ、最終の注文書には1隻について25万グルデン(ギルダー)まででお願いしたいみたいな記述が残っているのですが、この25万ギルダーってどれくらいの価値かがわからない。
いろいろ調べてみると、当時、商館長はじめオランダの人が長崎で働いていた年収を今の日本の給料に換算すると1万グルデンが約1億円だろうとのネットの記事を見つけて(商館長は年収15000グルデンだったらしい!)そのまま使わせてもらうと、咸臨丸は約25億円くらいに相当するのではと推測ができる。
では、支払いはどうしたかと云うと『十分の二は小判、銀または銅で、その残額は通常の貿易品で支払う』と記載されていて、つまり20%は現金で、といっても当時は国際通貨に関して何の取り決めもされていないので実質的な重さの金または銀で、その他は貨幣じゃない品物になったんでしょうね。
◎長崎伝習所の開設
スンビン号は幕府に献上された後、名前を『観光丸』に変え(国の光を見るという意味)日本の海軍の第一号の練習船に生まれ変わりました。
海軍教育の場として『長崎海軍伝習所』が出島の隣の長崎西奉行所を校舎として活用され、航海術造船術の習得を中心とした日本初の海軍学校が設立された。教師団長ペルス・ライケン大尉以下22名の教育派遣隊で教授陣を固めた。
江戸城無血開城等で歴史に名を残した勝海舟(海舟は号、幼名麟太郎、後に安芳と改名、この時点では、勝麟太郎)は幕府への意見書を老中の阿部さんに提出して、その才能を見出され、この海軍伝習所の伝習生の総督(監督格)として抜擢された。ここからこの人の出世街道が始まるんですね。
第一回の伝習生は53名、開所式は1855年12月1日、伝習生は学生といえど、いずれも壮年に達したサムライたちであったとライケンさんの弁
授業は朝8時から昼1時間の休憩を挟んで夕方4時まで、授業内容は 航海・運用術(ライケンさん直々に教授)、造船、砲術、船具、測量、算数 蒸気機関、銃砲訓練と多岐にわたるが、授業はすべてオランダ語。
日本人の通訳が訳して伝えるが専門用語も多く、どう訳していいか分からず最初の2,3ヶ月は相当苦労したようです。
ファビウスさんの意見書には伝習所を設ける前にオランダ語の学校の設立の要望が入っていたが、なぜかそれだけは聞き入れられなかったようです
座学は広間で行われたので冬の寒い日でも火鉢があるだけなので、南国のバタビアから来たオランダの教授陣には寒さがきつく、改善を申し入れたようですが、聞き入れられなかったみたいです。
出典元
海軍総説史 著者:篠原 宏 発行:株式会社リブロポート
長崎海軍伝習所 著者:藤井 哲博 発行:中公新書
週刊ビジュアル日本の歴史50 徳川幕府の衰退10 発行:㈱ディアゴスティーニ・ジャパン