先にも書いたがペリー提督が最初に来航してから、約1ヶ月後ロシアの艦隊が長崎に来航,
アメリカだけではなく世界の大国が日本に狙いを定めている。もはや一刻の猶予も無い。
投稿 米川
老中の阿部さん、鎖国なんぞにしがみついている場合じゃない、日本も開国に向けて動き 大国に立ち向かえる軍艦、最新鋭の武器を持たねばと思ったんでしょうね。
阿部さんの事態の認識とその対処法は実に適確と言わざるを得ないですね。 ペリー2度目の来航までに幕府は動いていたのです。
阿部さんは長崎奉行の水野忠徳(ただのり)に 打診した。阿部さんも幕府の中では進歩的な考えの持ち主、水野さんも長崎で海外との通商を 取り仕切っていた経験でかなり進歩的、この二人が動くと事が早い。
水野さん。長崎に駐在しているオランダの 商館長クルチウス(今で言えば駐日大使に相当するか)を呼んでオランダから最新鋭の軍艦を購入したいと相談。
当時、日本が頼りになる西洋の先進国はオランダしか無かったのですね。
阿部さん、オランダへの依頼について徳川将軍に書簡で報告していて、それが面白い。
『幕府の必要な軍艦だけでなく、諸大名も必要となるので、軍艦はいくらあっても困る事は無いので、長崎奉行には軍艦50〜60隻をオランダに依頼するように言っておきました』と書いていて、まあすごい話というか、大雑把すぎるというか、日本も遅れを取り戻さねばと云う焦りもあったのでしょうね。
一度にそんな沢山の軍艦、武器を注文するって言われてもオランダも困るんですね。
数は別にして軍艦を提供するのは良しとしても、それだけでは宝の持ち腐れ、それを使えなければ意味がない。乗組員の教育をどうするかも決めて進めないとと進言。もっともな意見ですね。それで、クルチウスさんはどうすべきかを本国とやりとりをする、オランダとしても日本との関係は繋いでいきたい、従って日本の要望に答えることは有益である。
ただ今後、日本がアメリカ、ロシア、イギリス等の強国とどういう条約を結ぶのか、そこが気がかり、事実、オランダとの和親条約はアメリカやロシアとの条約締結の後なんですね。
また、厄介な事に、その時期にヨーロッパのクリミア半島を中心にで戦闘が始まっているんですね(ナイチンゲールで有名なクリミア戦争)オランダは中立の立場ですが、こんな時に極東の国、日本に大量の軍艦、武器を売って良いのかって、アメリカ、ヨーロッパの国々の顔色も観なくてはならない。ちょっとセンシティブに悩ましい問題なんですね
◎注文書の提示と妥協案
双方の事情があって、なかなか煮詰まらない交渉をなんとか水野さんがまとめ、『軍艦注文約定要旨』という形で提示していて、大まかに言うと7〜8隻の軍艦(内、蒸気船3〜4隻)を来年1854年の夏に長崎に回航を希望、教育で長崎に残留する者は市内の寺院を提供する、その他大砲の詳細仕様等があり、面白いのは将軍に献上するための蒸気船の模型2隻、蒸気船、帆船の専門書などが入っているんですね。
まあそれにしても来年には長崎にまで持って来いとはえらい強気ですね。
◎スンビン号とファビウス中佐がやって来た
そういう経過があって、翌年1854年の8月にバタビアから『スンビン号』と海軍中佐ファビウスが長崎にやってきた。
スンビン号: 3本マスト木造外車蒸気船
長さ 51.82m 排水量 780トン 150馬力 速力5ノット
ファビウスさんは3ヶ月間長崎に滞在している間 教育もさることながら、長崎奉行水野さんの問いに対する意見書をまとめ、提示しているんです。
当時の世界の海軍の大勢、日本が地理的に良い港湾を保有していて海軍創設に最適である事、将来の造船のこと、人材教育のこと、その手法等々、事細かに懇切丁寧に述べていて、水野さんはそれを海軍創設の基本構想としてまとめ幕府の阿部さんにお伺いを立てています。
阿部さんの事ですから内容の殆どに賛同し、ファビウスさんがバタビアに帰るまでに幕府の 見解を伝えているんです。仕事が早い!
ここに日本海軍の設立の草案が出来、いよいよ動き出したんです
ファビウスさん、翌年の1855年6月にスンビン号と教育のための派遣隊長ペルス・ライケン大尉を引き連れて長崎に再度来航。 ここから実質的な海軍の創設とその教育が始まったのですね。
出典書籍
幕末の蒸気船物語 著者:元綱 数道 発行:㈱成山堂書店
海軍総説史 著者:篠原 宏 発行:株式会社リブロポート
長崎海軍伝習所