ペリー提督は約束通り、次の年の2月に再び浦賀に現われた。約束の4月か5月より早く。
他の諸国に抜け駆けされれば、元も子もないという心理が働いたのだろう、1回目の来航のあとすぐにロシアが来ている事はペリーの耳には入っていた筈。
2度目の来航は新たに蒸気外車船『ポーハタン』や帆走軍艦を加え全部で9隻の大艦隊でやって来た。 投稿 米川
庶民は、またまたパニックになりかけたが 同時に好奇心をくすぐられ黒船見たさに 野次馬が殺到して大騒ぎになったという。
迎え撃つ幕府側、老中の阿部さん、国書の回答を取りに来たペリー提督に対し答えのないままこの日を迎えてしまった。
直接の交渉役に儒学者で外交官の大学頭(だいがくのかみ)林復斎をあてた。この林さん、結構の凄腕らしく 冷静にして沈着、ペリー艦隊からの100発以上の空砲(礼砲)にも臆すること無く、また戦も辞さないとの高圧的な交渉にも「補給もできない状況でペリーが攻撃を仕掛けられる訳がない」と重臣たちを落ち着かせ、お互いの腹のさぐりあいで始まった交渉は、時には 丁々発止のやり取りもあり、林さん一流の駆け引きで、決してペリーさんに強権でねじ伏せられた内容ではなかったという事らしいです。
5つの港を開港させ、できれば通商条約の内容まで盛り込みたかったペリーさんであったが、下田と函館の2港の開港、通商の内容は今回は切り離すという妥協案で『日米和親条約』なるものが締結された。
日本もここで大きな歴史の転換点を迎えたということですね。
ペリー提督は強権的、強引、高圧的というイメージが強いがそれは交渉術としての一面であり、実際は非常に紳士的で事前に日本についてよく勉強し、日本人を理解しないと交渉を まとめることは出来ないと云う姿勢で挑んだみたいですね。
真面目で偉い人ですね。
幕府の役人たちを艦上に招き入れ、食事や酒を振る舞い、もてなす事も大事と接待外交も行なって、その際に出されたデザートのケーキには接待された各役人の家紋が付いた旗を刺し、これを見た幕府の役人は大変喜んだという。
こんな事、今でもなかなか出来ない事ですね。
◎ 贈り物の交換
条約の交渉が進められている間に、互いに贈り物の交換がわれたようでペリーは先進の技術を見せつけるために先端の機械を持ってきた。とりわけ電信機と汽車の模型は日本人の興味を引いた。
円形の軌道を走る機関車が乗るには小さいが、それでも汽車の屋根の上に乗った役人が袴をヒラヒラさせて乗る姿が面白かったとあり、ペリーの『遠征記』には日本人の喜ぶ姿が記録されている。
◎日本の観察
条約調印後、日本側からアメリカの士官を食事に招待している。どうも口には会わなかったらしく味が薄い、量が少ない等、歓待を得たことには喜んだが満足しなかったみたいですね。
前回も今回も浦賀に来る前に沖縄に寄って来ているが、沖縄で受けた接待の食事の豚肉や豚の臓物を使った琉球料理のほうが口に合ったらしく、琉球人は日本人よりも良い生活をしていると残している
日本の女性に対しての見方は好意的で、日本の社会においては女性が伴侶と認められていて、他のアジアの国の女のように家畜でも家内奴隷でもなく、ましてや浮気な淫楽のために買い入れられたものでもない。
一夫多妻制が存続しない事実は、あらゆる東洋諸国国民のうちで最も道徳的で、洗練されていると書かれている。
一方で街に出ると、公衆浴場でかなりの衝撃を受けたようです。なんと男女が一緒に入る混浴だったのです。(当時はそうだったのですね)
普段の日本人の礼儀正しく、控えめだけれど快活なそういう印象からは程遠い、光景のそのギャップの大きさに困惑した様子。一般的には道徳的な日本の民に、ある階級の民衆の 不道徳な面という書き方をしている。性に対してあまりにも放漫な姿に唖然とする一行の見方、感想が面白いですね。真面目で厳格な人柄が見て取れますね
こうしてペリー提督一行は、一定の成果をもって、3月21日に横浜を出港し、開港を約束した下田、函館の両港を視察し日本を後にした。
江戸幕府は今回の条約締結と世界の動きに対して、鎖国令を破棄し新たな展開を実行に移す必要にかられた。
出典元
船の科学館 資料ガイド4 黒船来航 発行:(財)日本海事科学振興財団 船の科学館
週刊ビジュアル日本の歴史49 黒船来航 発行:㈱ディアゴスティーニ・ジャパン
海軍創設史 著者:篠原 宏 発行:㈱リブロポート
ペリー艦隊大航海記 著者:大江 志乃夫 発行:㈱立風書房
大人のやりなおし日本史 TJMOOK 発行:宝島社
NHK地デジ番組: 歴史秘話ヒストリア「日本人ペリーと闘う 「165年前の日米初交渉」
※ 前号のコラム⑤で 阿部伊勢守の名前が 安倍になっておりました。訂正してお詫びいたします。